第6話 自給自足の知恵と小さな成功 -3
アレンとの会話後、健一は自身が楽しそうに道具の話をしていることに気づいた。
前世においては、総務部で「何でも屋」として勤務していたが、職務の正確性や効率性ばかりを要求され、自身の「ものづくり」の趣味が職務に役立つことはなかった。
むしろ、彼の完璧主義は、周囲に息苦しさを与え、彼自身を追い詰める原因となっていたのである。
「前世の私は、効率と正確性ばかりを追求していた」
健一は回想した。
「わずかでも時間がかかれば、上司に睨まれる。同僚は、私が完璧主義すぎて近寄りがたかったであろう」
彼は苦笑した。
その記憶は、もはや彼を苦しめるものではなく、過去の自分を客観的に見つめるための材料となっていた。
彼は、あの頃の自分が、いかに視野が狭く、不器用であったかを冷静に分析していた。
「完璧な備品管理、完璧な庶務処理。それが私にとっては『正しさ』であった。だが、それが真に誰かの役に立っていたのか?少なくとも、私の家庭には何ももたらさなかった…」
離婚した妻の言葉が再び脳裏をよぎった。
「健一さんは常に正しいわ。しかし、正しいだけでは、生きていけないのよ」
その言葉が、今この異世界で、全く異なる意味を持って響き渡る。
この世界では、完璧でなくとも、心が通じ合うことの価値を彼は知り始めていた。
彼の心は、かつての頑なさを失い、柔軟性を取り戻しつつあった。
現在、自身の製作した不格好な道具が、アレンに「器用だ」と称賛された。
完璧でなくとも、役に立ち、喜ばれることに、これまで感じたことのない種類の満足感を覚えた。
それは、心の奥底から湧き上がるような、温かい感情であった。
「ここでは、完璧である必要はないのだな」
健一は静かに悟った。
「ただ、誰かの役に立ち、感謝される。それが、これほどまでに心地よいものなのか」
彼はさらに思考を巡らせた。
「前世の若者たちも、きっと同様の完璧への重圧に苦しんでいるのであろう。失敗を恐れ、無難な道を選択し、真の喜びを見失っているのかもしれない…」
この世界の不完全さ、そしてそれを受け入れる人々の温かさに触れる中で、健一の心は徐々に解きほぐされていった。
肩の力が抜け、表情が穏やかになる。
彼の心は、あたかも春の雪解けのように、ゆっくりと柔らかくなっていったのである。
◆◇◆
小屋の周囲には、健一が製作した柵や、簡便な菜園が形になり始めていた。
生活の基盤が徐々に整っていく手応えが、健一の心に確かな充実感をもたらした。
夕暮れ時、暖炉の火がパチパチと音を立て、小屋の中を温かく照らす。
森からは、夜の帳が下りるにつれて、様々な生き物の気配が感じられた。
遠くで狼の遠吠えが聞こえることもあったが、健一はもはや恐怖を感じることはなかった。
「健一様、最近とても楽しそうでいらっしゃいますね。前世の、あの疲弊したお顔はもはや見えませんね」
リルルの優しい声が、健一の心に染み渡る。
彼女の言葉は、健一自身の変化を明確に示していた。
「そうだな、リルル」
健一は頷いた。
「ここでは、誰にも異論を呈されることなく、自身のペースで自由にできる。それが、これほどまでに満たされることだとは知らなかったよ」
健一の表情には、偽りのない喜びが浮かんでいた。
それは、心の底から湧き上がる、穏やかな幸福感であった。
「きっと創造神様も、あなた様がこの地で輝くことを望んでいらっしゃいます」
リルルの言葉が、健一の新たな人生を肯定してくれるようであった。
健一は暖炉の火を見つめながら、二つの月が輝く夜空を見上げた。
満月と、その隣に寄り添うように輝く淡い青い月。
孤独を感じないわけではないが、それは前世の空虚な孤独とは異なる、穏やかな静寂であった。
むしろ、この静けさの中でこそ、彼は自身と向き合い、心の声を聞くことができたのである。
「これで良いのだ。完璧でなくとも、誰かの役に立ち、そして自身が満たされる。それが、私が探していた『正しさ』なのかもしれない」
静かに、しかし確かな決意が彼の心に宿る。
明日、アレンに依頼された「破損した農具」を修理する。
そのささやかな約束が、健一の心を温かく満たしていた。
彼の第二の人生は、確かな一歩を踏み出したばかりであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます