第九夜 朝を待たないベッド

「さよなら、を言わずに逝くのは、ずるいと

 思うんです」


そう言って、彼女は泣いた。


火葬を終えた翌日の夕方。

控え室の蛍光灯が、葬儀を終えた身体に刺さるように冷たかった。


 


彼女──榊(さかき)沙希さんは、亡くなった男性の“同居人”だった。

配偶者ではない。親族でもない。

届け出の住所は同じでも、戸籍上はまったくの他人。


だから死亡届には「その他の同居者」としか書かれなかった。


 


「眠ってるみたいだったんです。ほんとに、

 いつもと同じ顔で。

 だから──まだ言ってないんです。『おはよう』 

 も、『おやすみ』も」


 


私は寝台車の鍵を握ったまま、ただ頷くことしかできなかった。


 


彼女の目は、泣いているのに澄んでいた。

よく泣く人の目ではなかった。

きっとこの三日間、彼女は涙を堪えてきたのだろう。


 



 


この仕事──葬祭業に就いて十年になる。


人は、死に慣れない。


どんなに静かに亡くなったとしても、

そのあとには、いつも大きな“音”が残る。


後悔の音、怒りの音、無念の音。


「なんで」

「まだ」

「もう一度」

 

──そんな言葉たちが叫ばれもせずに部屋に

  染みついていく。


 


だが沙希は、最初から最後まで声を荒げなかった。

黙って動いて黙って座る。まるで彼の死を

"否定するでもなく受け入れるでもなく"

抱えていた。



聞けば、ふたりは五年同棲していたという。

籍を入れる予定もなかったし、特にその必要性も感じていなかった。


「一緒にいる」ことが自然で、あたりまえで、

それ以上に言葉を要さない関係だったのだろう。


 


「最後の夜、彼が先に寝ちゃって……

 わたし、動画観てて……それで、ちゃんと

 “おやすみ”って言わなくて……」


 


それきり、彼は朝を迎えなかった。


睡眠中の突然死。

持病なし。健康診断でも異常なし。

まるで“深い眠り”が、境界を越えてしまったようだった。


 


「……ずるいですよね」


と、沙希さんは笑った。


唇の端だけが上がった笑み。

でもその笑いには、凍った涙のような脆さがあった。


 



 


翌日、私は遺品整理の立ち会いに同行した。


狭い1LDKの部屋。築浅のマンション。

家具は最低限で、壁も床もきれいだった。


リビングにはふたりの写真が一枚、額に入っていた。



ベッドルームの扉を開けた瞬間──

そこに、彼の「形」が残っていた。


へこんだ枕。

斜めにずれたままの掛け布団。

壁際のサイドテーブルには、読みかけの文庫本。


 


“まだ、そこにいるような気配”。


出かけた先から、何食わぬ顔で戻ってきそうな気がして、私は一歩を踏み出すのに時間がかかった。


 


沙希さんが、そっと布団を整えようとしたその時

ベッドの隙間から、なにかが滑り落ちた。


小さな、四つ折りの紙片だった。



彼女はそれを拾い、開いて──しばらく黙って、

手を震わせた。

 


「……おれ、先に寝てる。

 起こさないようにするけど、

 ちゃんと起こしてね。

 おやすみ」



──メモには書かれていた。


 


彼の、手書きの文字だった。





 


彼の手書きメモを読み終えたとき、

沙希さんの指先が、小さく震えた。

 


「……おやすみ、って……言ってくれてたんですね」


ぽつりと、呟いたあと、彼女はそっと膝をついた。

そのまま枕元に顔を伏せる。



「でも、“起こしてね”って……もう

 無理ですよ……」



声を押し殺して、彼女は泣いた。

まるで、これまで抑えこんできた感情が、

やっと許されたかのように。

 


泣きながらも、手は動いていた。

布団を整え、枕の位置を直し、散らかった衣類をひとつずつ畳んでいく。


その所作は、毎朝のように彼を起こしていた日の再現のようだった。

 


「寝坊しすぎ……だよ」


そう言って笑おうとした顔は、涙に濡れていた。


 



 


私は、彼女のそばで何も言えなかった。


「泣いていいですよ」とも、「大丈夫ですよ」とも言えなかった。

ただ、その場に立ち尽くしていた。


“朝を待たなかったベッド”。


それは、終わりを告げる場所ではなく──

言葉にできなかった別れの続きを、ようやく始められる場所だったのかもしれない。


 



 


その後、沙希さんは彼の本棚をゆっくり見渡し、

一冊のノートを取り出した。


罫線に乱れた字で、短い日記のようなものが書き込まれていた。


 


──「沙希の寝顔はほんと、猫っぽい」

──「またクッション取られた。

   そろそろ奪還作戦を練る」

──「来週の水曜、早く帰れそう。

   ふたりでなんか食べに行こう」



ただの、なんてことない日常の断片。


けれど、今となってはそのどれもが、

「彼がここにいた証」だった。



「……こんなふうに残されるなんて、

 思わなかったな」

「もっとちゃんと、いろんなこと話せばよかった」

「……でも、ちゃんと好きって、思ってもらえてた 

 んですね。よかった」


 

沙希さんは、最後に彼の布団を一度抱きしめ、

そして手放した。


 



 


私は、帰りの車の中でふと、思った。


人はいつも、眠りの終わりに「朝」が来ることを信じている。


でも、もしそれが来なかったとき──

その眠りは、ただの「死」になるのか。



あるいは、

誰かが「起こそうとしてくれる限り」、

それはまだ、“眠り”のままでいられるのかもしれない。


 


沙希さんは言っていた。


「もう“おやすみ”って言わない代わりに、

 “おはよう”だけは毎朝言うようにします」って。


 


もう返事はないと知っていても。

目覚めることはないと分かっていても。


それでも──眠る人のそばに、朝の声を置いておく。



それが、彼女なりの別れ方だった。

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