第八夜 仮眠室より、夢をこめて
──これは眠ることを忘れた人たちの
ささやかな休息の話。
駅ビルの上階、古びたサービスフロアの一角に、
誰にも知られない「仮眠室」がある。
正式な施設ではない。
看板も案内もなくエレベーターの隅にだけ貼られた「STAFF ONLY」の貼り紙。
けれど、そこは誰でも入っていい。
むしろ“帰れない人”にとっては最後の寄る辺だった。
鍵もない扉を開けると部屋は薄暗く
かすかに石鹸と埃のにおいがする。
片隅に毛布とクッション。
壊れかけのソファベッドが3つ。
加湿器は音を立てて動き古い壁掛け時計がゆっくりと針を回している。
そして──一冊のノート。
白い表紙に、ただ手書きで「夢」とだけ書かれている。
中を開くと、そこには誰かの夢が書かれている。
──「昔飼ってた犬に会いたい」
──「死んだおじいちゃんに“ありがとう”が
言いたい」
──「夢の中だけでも、誰かと話したい」
──「もう少しだけ、今日を忘れたい」
仮眠室を訪れた人たちは、寝る前に「見たい夢」を一言、そこに書き残していく。
誰が最初に始めたのかはわからない。
けれど、なぜかみんな、自然と書く。
それが、眠るための儀式みたいになっていた。
管理人を名乗る男が一人いる。
と言っても身なりはくたびれたジャケットにニット帽。
夜の繁華街でよく見るホームレスのような男だ。
名前も素性も知られていないが常連たちは彼を
「夢守(ゆめもり)」と呼んでいた。
夢を守る者──それが、この場所の主の役目だった。
ある夜、ひとりの少女がふらりと現れた。
制服姿。キャリーケースを引いて、どこか所在なげな顔つき。頬はこけ目の下には深いクマ。
年は、おそらく高校生。
でも、その目は──“起きたくない人の目”だった。
「……ここ、泊まれますか?」
かすれた声だった。
夢守は言った。「寝るか?」
少女は少しだけ迷って、それでも頷いた。
「……はい。少しだけ」
毛布を受け取り、ソファに腰を下ろす。
夢守がノートを差し出す。
「夢、書くか?」
少女はしばらくペンを握っていたが、
やがて一言だけ、こう綴った。
『目が覚めませんように。
でも、怖くありませんように。』
ノートの文字は筆圧の弱さからか今にも滲みそうだった。
少女はそのまま毛布にくるまり、ゆっくりと目を閉じた。
⸻
その夜、少女は眠った。
静かに深く、どこにも行かず誰にも触れられず──ただ、自分だけの時間に沈んでいった。
仮眠室の空気は、どこまでも穏やかだった。
加湿器の蒸気がやわらかく灯りに溶け、
時計の針が静かに刻む音が、かすかな子守唄のように響く。
夢守は、少女から目を離さずにいた。
この場所にいる者たちは、みな"傷ついて"
やって来る。
誰にも言えない痛みを抱えて。
居場所を失い声を枯らし、それでも眠れずに──
この部屋に辿り着く。
そしてこの場所は、ただひとつの条件だけで迎え入れる。
「眠る意思があるかどうか」
それさえあれば人はここにいていい。
泣いてもいい。黙っててもいい。
何も言わなくていい。
ただ──眠っていい。
その夜、少女は長く眠った。
小さな寝息が、ほんの少しだけ揺れて仮眠室の空気を温かくした。
夢守は少女のキャリーケースをそっと壁際に寄せ、落ちた毛布の端を直してやった。
その手つきは、あまりにもやさしく静かだった。
──そして、朝が来た。
部屋の明かりがゆっくりと明るくなり、
外の気配が戻ってくる。
少女は、ゆっくりと目を開けた。
「……朝、ですか?」
「そうらしい」
夢守はカップにぬるいお茶を注いで差し出した。
少女はそれを受け取り、しばらく黙ってから、
ぽつりと言った。
「……夢、見ました」
夢の内容は語らなかった。
けれど、その目は少し澄んでいた。昨夜とは違う、ほんの少しだけ前を向いた目。
「帰ります」
「そうか」
少女はキャリーケースを引きドアの前でふと立ち止まった。
「……あのノート、誰か読んでくれるんですか?」
夢守は答えなかった。
ただ一度、小さく笑った。
少女はそれで満足したように、深く頭を下げた。
そして、駅ビルの雑踏へと姿を消した。
⸺
ノートの最後のページに、ひとことだけ書き足されていた。
『帰る場所は、まだない。でも、少し眠れたから
大丈夫。ありがとう』
夢守はそれを読み、そっとページを閉じた。
今日も、夜は来る。
また誰かが、ここで夢を見て眠り
そして去っていく。
それだけで、この場所には存在する意味がある。
ここは「仮眠室」。
夢をこめて眠る場所。
眠る理由を忘れた人たちが、ほんの少しだけ、自分を取り戻す──静かな始発駅。
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