第五夜 眠れぬ母の墓標
──母の寝息が聞こえる。
そんなはずはないのに。
実家に戻って三日目の夜だった。
風呂上がり、まだ濡れた髪をタオルで拭きながら、二階へと階段をのぼっていたときのことだ。
廊下の奥、母の寝室から──くぐもった音がした。
低く、一定のリズムで、ほんの微かに。
まるで誰かが静かに眠っているかのような、
……そんな音。
耳を澄ますまでもない。聞き覚えのある音だった。
──母の寝息だ。
けれど、その部屋にはもう誰もいない。
母は三年前に心不全で亡くなった。
葬儀も済ませ、遺骨は近くの寺に納められている。
遺品も整理され、あの部屋には空っぽのタンスと、古びたベッドだけが残っている。
──はずだった。
わたし──山岸暁人(やまぎし・あきと)は、
母の三回忌を機に実家へ戻ってきた。
東京での仕事を辞め、部屋も引き払い、当面は
“休養”という名目で、人生を棚上げにしていた。
正直なところ、母との関係はあまりよくなかった。
几帳面で、感情的で、繊細な人だった。
眠りが浅く、不眠気味で、夜になるといつも
ピリピリしていた。
わたしの不眠は──間違いなく、母から始まったのだ。
──お母さん、寝れないの?
──あんたがうるさいからよ。静かにしなさい!
──まだ起きてるの?
──眠れるわけないでしょ。あんたが泣くから!
母は、眠れない夜にだけ、怖い顔をした。
眠っているときだけが、唯一穏やかな時間だった。
だから、あの寝息を聞いた瞬間──
まだこの家にいるのか、と、思ってしまった。
わたしは、そっと母の部屋のドアを開けた。
しんと静まりかえった空間。
空っぽのタンスと、誰もいないベッドだけが置かれていた。
空気はどこか重く、古い布団のにおいが残っている。
何も変わらない。
けれど──ベッドのシーツが、わずかにくぼんでいた。
まるで、誰かが、ついさっきまで横になっていたかのように。
翌朝、玄関の傘立てに目が留まった。
そこに立てかけられていたのは、黒地に赤い花柄の傘。
あれは、母のものだった。
派手な色合いで、誰が見てもそれと分かる。
……たしか、処分したはずだった。
冷蔵庫には、母しか飲まなかったトマトジュース。
茶箪笥には、母の日にもらったカーネーションの造花。
押し入れの奥からは、母が残した手紙の下書きが出てきた。
──誰が置いた?
いや、そもそも、誰が「消えた」と決めつけていたのか?
日が経つごとに、家の中に母の気配が増えていった。
廊下を踏む音。
台所で響く包丁のリズム。
好きだったクラシック音楽の旋律。
使っていた香水の残り香。
引き出しに忍ばせていた、知らなかった昔の写真。
忘れたはずの声が、日に日に、こちらへ戻ってきた。
⸻
記憶は眠るものだと思っていた。
けれど──それは、うまく“寝かせていただけ”なのかもしれない。
押し入れの奥から出てきた手紙の下書きには、
わたしの名前が何度も書かれていた。
「おやすみ、暁人」と。
もう、何年も耳にしていなかった言葉だった。
母が亡くなって以降、わたしは眠れなくなった。
浅い眠り、繰り返す夜更かし、乱れた生活。
理由を仕事やストレスに押し付けていたけれど、
本当はずっと──母を引きずっていたのかもしれない。
ある晩、仏間でうたた寝をしてしまった。
畳の感触と、仏壇から漂う線香の香り。
気が緩んで、意識がそのまま深く沈んでいった。
ふわりと夢の中へ落ちる。
そこには、母がいた。
真っ白な服を着て、あの頃と同じ、どこか疲れた目をしていた。
昔よりも痩せて見えたけれど、その顔はたしかに、母だった。
部屋の中は薄明かりに満ち、音がない。
まるで時が止まったように、母はじっとこちらを見つめていた。
やがて、唇が動いた。
──「もう、寝かせてよ」
その一言だけだった。
責めるでも、泣くでも、笑うでもなく。
ただ、静かに、願うように。
その声で目を覚ましたとき、わたしの頬は濡れていた。
冷たいのではなく、どこか温かい涙だった。
母は怒っても、疲れてもいなかった。
夢の中のあの顔は、ただ、眠りを求めている人の顔だった。
「お母さん……」
誰に聞かせるでもない声が、口から漏れた。
初めて、そう呼んだ気がした。
それは、喪失ではなく、ようやく眠りにつくための儀式のようだった。
翌朝──母の寝息は、もう聞こえなかった。
玄関の傘は消えていた。
冷蔵庫のトマトジュースも、空の容器だけが残されていた。
布団のくぼみも、いつの間にか平らになっていた。
茶箪笥の中の造花も、しおれたように色褪せていた。
まるで、すべてが「役目を終えた」とでも言うように。
けれど、不思議と寂しくなかった。
それは母がいなくなったという感覚ではなく──
母がようやく、ちゃんと眠れたのだという安堵だった。
わたしは母をずっと「眠らせて」あげられなかったのだと思う。
不機嫌な夜を、気まずい距離を、苛立ちの沈黙を、わたしは残したままだった。
でも、今なら言える。
──おやすみ、お母さん。
その日から、わたしも変わっていった。
夜になると、少しだけ早くベッドに入るようになった。
テレビを消し、スマホも置き、静かに目を閉じる。
以前なら、眠れない夜の音に耐えきれず、すぐに明かりをつけていたけれど、もう違う。
目を閉じれば、どこかで聞こえてくる。
深くて、穏やかな寝息のような静けさ。
それはきっと──母の眠りが、ようやく安らかなものであるという、わたしの記憶そのものだ。
──母の寝息が聞こえる。
そんなはずは、ないのに。
それでも、あの夜の音はたしかにあった。
そして、今では──もう、聞こえない。
ほんとうに、眠れたのだと思う。
そして、わたしもまた──
ようやく、深く眠れるようになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます