第四夜 月光睡

──“お迎えの時期です”。


その言葉を聞いたのは午後の検温ラウンド中だった。


端末に表示されたステータスは「意識微弱・脳波非活性化・循環補助安定」。つまり、目覚める見込みがほとんどないということ。


それでも、システムは“死亡”ではなく、“継続睡眠”と表示する。

死ではなく、眠り──この時代では、それが

「もう戻ってこない」ことの婉曲表現だった。


 


わたしは、冬眠室技師。名前はもう必要とされていない。身元すら曖昧なまま、ただ黙々と“眠りの管理”をする毎日だ。


第47区・冷凍睡眠室。通称:ムーンシェルター。


数千人の高齢者、難病患者、脳死者がここで眠り続けている。

老いや苦痛を凍結し、意識も止めて、次代の医療技術が「追いつくまで」を眠り続ける──それが、彼らに与えられた“猶予”だった。


希望に満ちた処置。尊厳ある延命。


……建前では、そう言われている。


だが、現実は“死の前借り”に過ぎない。

誰もが、ほとんど帰ってこない。


 


今回の通知対象は「冬眠コードA21-88N」。

登録データによれば、身体は五十代男性、意識は“非活性”とされ、安置されて十年。


引き取り予定者もすでに連絡不通。

担当医は淡々と言った。


「脳波記録に異常あり。早期凍結解除と処分を。

 記録ファイルは削除で構いません」


 


──だが、わたしはそのファイルを、なぜか開いた。


古い倫理コードに反することは理解していた。

けれど、“眠っている誰かの夢”が、どうしても気になった。


もしかしたら、何かを“見て”いるのではないか。


 


【記録再生中──A21-88N / 月光領域】


 


映像が映し出したのは、月面のように白く乾いた荒野だった。

空もなく、音もなく、ただ無数の影が長く伸びている。


中央に、ひとりの子どもが座っていた。


年齢は七、八歳。膝を抱え、うつむき加減にじっと動かない。

小さな影が、ずっと誰かを待っているように見えた。


そして、突然だった。


その子が、わたしの名前を呼んだのだ。


 


──「……たすけて」


 


耳の奥に、金属の擦過音のようなノイズが走った。


次の瞬間、映像は強制終了。

端末が異常を感知し、アクセスが遮断された。


画面には警告が点滅し、端末は発熱。焦げた臭いが空気に混じった。


 


それでも、わたしには確信があった。


あれはただの“記録”ではない。

あれは、“まだ生きている意識”だった。


まるで、死と眠りのあいだで迷子になったような、そんな気配。


人ではなく、“魂”がそこに取り残されている──


 


“月光睡”。


その言葉が脳裏をよぎった。

かつて廃棄された禁術文書に記されていた仮説。


──月光のように淡く光る眠り。

  死と生のはざまで漂う、“魂の揺籃”。


 


翌日、A21-88Nのカプセルは破棄された。


技師であるわたしに、止める術はなかった。


けれど最後、眠る顔を確認したその瞬間、わたしは思った。


──まるで、「ようやく、目が覚めた」と言っているかのように。



 


その穏やかな顔を最後に見たとき、わたしは奇妙な安堵を覚えた。


通常、冬眠カプセルの破棄は事務的に終わる。

液体窒素の配管が切断され、制御装置が取り外され、遺体は「非生体資源」として廃棄処理される。


でも、その日だけは違った。

処理の最中、なぜか手が止まったのだ。


ほんの数秒──その眠る顔に、確かに何かが残っている気がした。

痕跡のような、気配のような、“想い”のようなものが。


 


夜。


わたしはこっそり、再びログ端末に接続した。

破棄処理されたはずの「A21-88N」の記録は、すでにシステムから消されている。


だが、アクセス履歴を追うと、一部のキャッシュが残っていた。

映像はすでに壊れていたが、ひとつだけ──音声ファイルがひっそりと生きていた。


 


ノイズまじりの音声。


解析をかけると、人の声が浮かび上がってきた。


 


──「……ボクは、眠ることを許されたんだね」


 


それは、確かにあの“夢の中の子ども”の声だった。


あれは彼自身だったのだ。

かつての彼──幼き日の“記憶”か、“心”そのものか。


いずれにせよ、彼の内側で、ずっと“目を覚まさずに待っていた存在”が、ついに安らぎを得たのだ。


 


「月光睡」──死にきれない魂が、安らかな眠りを得るための漂泊領域。


それは、医療の果てで偶然に生まれた、“祈りの空白”だったのかもしれない。


死でもなく、生でもなく。

治癒でもなく、延命でもなく。

ただ、何かを“見送るための静けさ”。


 


翌日、施設の担当医が言った。


「技師A32、A21-88Nの記録は完全削除済みです

 ね?」


わたしは頷いた。

はい、と。


誰にも知られることなく、その意識は、消えたことになった。


 


──けれど、私は今も思い出す。


白い荒野にひとりで座っていた、あの子の背中を。


“誰かが来る”ことを信じて待ち続けていた、その静かな希望を。


もしかしたら、わたしがログを開かなければ、

彼はずっと、誰にも気づかれないまま、さまよい続けていたのかもしれない。


ほんの一瞬でも、“届いた”のだと信じたい。


 


わたしの仕事は、変わらない。


今日も変わらず、誰かの眠りを管理する。

名前もなく、身元も知らず、ただ静かに寄り添うだけだ。


けれど、あの出来事以来、眠る者の顔をよく見るようになった。

呼吸のリズムを感じ、まぶたの震えを観察し、その“微かな命”を想像する。


わたしが見送るこの眠りが──

たとえ他の誰にも見えなくても、確かに何かを終え、何かを癒しているのだと。


 


眠りは終わる。


けれど、目覚めが「生」だとは限らない。

「死」でもない。


そういう場所が、この世界には、きっとある。


 


──だから、もう大丈夫。


そう信じて、今日もわたしは、眠りの前に立っている。


月光のように淡く光る、魂の揺籃を見守りながら。

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