第8話

───「ごちそうさま」

そう、息を荒げた彼を手繰り寄せ、耳元で囁き、彼は力が抜けて私から離れて、ぐう、と意識を失った。

結論から言うと、とてつもない快楽の中に二人は音を立てて沈んでいった。

快楽があった、性的な興奮があった。

そうしてやはり、私は、私自身も夜を踏み違え続けている。私は、ピロートークも何もないこの夜が、道を踏み外しかけていたのだと理解した。

そういった認識が浮き彫りになった。

一回生の彼を、ドロドロと溶けた大学生の歪んだ愛の中に引き摺り込み、傷つけた。

彼の笑顔は、あの無垢な笑顔は───もう職場では見ることができないだろう。



揺れるリズム、弾む呼吸、ちぐはぐなキス。

パイナップルを食べているかのような夢を見させてもらった。

甘くて酸っぱい、忘れられない味。


これで私のものだった彼の周囲は、もう私の体を媒体とし、浮き彫りになり、完全に宙に浮いた。

どこまで堕ちれば、私は壊れていたことには気がつくのだろうか、と疑問に思っていた。

本当に堕ちていった。泥の中にいて、足をとられ、地面に立つ感覚すらなくなっていた。海周くんとの夜で、罪悪感と背徳感に溺れ、快楽に支配され、私の瓦解は完成した。

これでまた、明日以降バイト内での雰囲気はガラリと変わるだろう。

誰もが私と彼を浮かせた後、再度彼に心からの謝罪をさせよう。

それでこのバイトから追放し、復讐は終わりと言っていいだろう。

しかし、復讐とは、なんだったんだろうか。

私という存在の喪失なのか、私は、気付かぬうちに性的な昂りの中にいたのだろうか。

それとも彼の人生にナイフを突き立てるような愉悦なのか。

どちらかを選べばもう片方が壊れてしまいそうで、惜しんだ。答えを出すことを。

その境界線を越えた瞬間、私の中にあった甘くて腐った蜜が溢れ出すのだろう。

溢れちゃう、溢れちゃう。ふたをして、零さないで。


そんなことを考えながら、私は理性と、意識を失った海周くんの額を撫で、額にキスをし、改めて「ごちそうさま」と呟いた。


朝を迎え帰路に着いた我々は、手を繋いだり、腕を組むことはなかった。

私が無理矢理大人の階段を登らせたのだ、少し怒っているのかもしれない。

刺激が強過ぎたのだ、無理もないか。

だが、綺麗な夢だった。



そうしてまた後日、私たちはバイト先で顔を合わせることになった。

一人は、照れくさそうに。

もう一人は、こちらを軽蔑するかのような目で。

クソヤローは、ポカンとし、どこを見つめるでもなく、視線が宙を漂っていた。


レジカウンターの照明は、今日は異様なまでに暗く見えた。

レジのボタンに霞がかかり、よく見ないと誤った操作をしてしまいそうだった。

休憩室にあった、誰かからのお土産は、堅いだけで味がしなかった。

ここはもう、働く場所じゃない。

私を壊すためだけの、密室だ。


あの晩、私が支配するつもりだったのに、主導権は私にはなかった。

感情と肉体の乖離を感じた。

見事なまでの夜だった。

もう一口、ピロートークがあれば、また夢の中では甘い淡い苦いものとなっただらう。

だが、彼の初めての夜としては100点だった。

厨房に向かって、シェフを呼んでくれ、と言いたくなるほどだった。


私は瓦解した、と思った。

だが違った。四木海周の顔を見ると、「まだ終わってない」と、思った。

そこから、どうするか。

どうするかだなあ、と思い、レジを打ち続けた。

平日なのに、なんでこんなに客が来るんだ。

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