第7話:祟り報告書

 静かな会議室に、書類をめくる音だけが響いていた。


 騎士団本部、中央棟第三会議室──


 魔導灯の白光に照らされた円卓を囲むのは、王都騎士団の上層部数名。中央の報告台には、王国直属の尋問官、セリア=グレイフォードの姿があった。


「……それでは、報告を始めます」


 セリアの声は低く、よく通った。

 表情は冷静。だが、指先にわずかな震えがあった。


「件の奴隷──佐藤マサシについて、確認された異常傾向を順にご説明いたします」


 周囲の幹部たちは黙って頷いた。

 が、その空気にはどこか「気にしすぎではないか」という緩さが漂っていた。


 腕を組んだ将軍が片眉を上げる。


「たしかこの件、闇ギルド員の自首に関連していたな」


「はい。教育係ザイン。彼は佐藤マサシに対する思想矯正担当でしたが、五日後、自ら佐藤を伴い、騎士団詰所へ自首してきました」


「“思想の侵食”だったか……報告書には、そうあったな」


「正確には、“私は足るを知らなかった。彼と出会って気づかされた”と、そう語ったと記録されています」


 数人の幹部が顔を見合わせる。

 「足るを知る」──宗教的な響きに、場の空気がわずかに沈んだ。


 セリアは手元の書類をめくる。

 声に揺らぎはない。だが、語られる内容は、じわじわと異様さを帯びていく。


「次に、先日退職した元看守ハイドについて。彼は以前マサシを一時拘留していた際に接触し、その後“枷の哲学”を口にするようになりました」


「哲学……?」


「はい。“枷とは何か。それは誰のためにあるのか”と。退職前、“答えを探しに行く”と書き置きを残し、現在行方不明です」


 沈黙が落ちた。

 その空白を埋めるように、年配の幹部が咳払いする。


「……ただの影響を受けやすい若者だろう」


「そうかもしれません」


 セリアは頷きながらも、表情を変えなかった。

 そして──次の事例を口にする。


「今回の拘留で担当した看守、マイルズは……昨晩、マサシと一緒に牢の中で正座しているところを発見されました」


「……なんだと?」


 複数の幹部が声をあげた。


「彼の供述では、“ただ座っていただけなのに、心が静まった”と。診療記録に精神異常の所見はありません」


「それこそ、異常だろう」


 低く誰かが呟く。

 だが、セリアの報告は止まらない。


「さらに、尋問補佐兵の証言です。“怒鳴るたびに、相手が嬉しそうに微笑む。それが恐ろしい”と」


「……嬉しそうに?」


「はい。“自分の怒気が、相手の幸福になっていく錯覚”──彼は、そう表現しました」


 会議室の空気が変わった。


 緩さは消え、代わりに言葉にできない不快感が漂い始める。

 まるで、そこに“名のつけられない存在”が忍び込んだかのような──そんな沈黙だった。


 セリアは、資料の束をそっと置いた。


 そして、顔を上げる。

 その瞳は、揺れていた。


「──これは、“精神汚染”の可能性があります」


 ざわり、と誰かの衣擦れの音が響く。


「宗教現象の初期段階に酷似した兆候が、複数の個体で確認されている。……私は、そう判断しています」


「だが……意図的に布教した形跡は?」


「ありません。……それが問題です」


 セリアは言った。


「──あの男は、“存在するだけで人を感化する”んです」


 そう告げる彼女の声は、もはやかすかに震えていた。

 怒りでも憎しみでもない。


 ただ、心からの“恐れ”だった。



「……ですが」


 セリアは、ふと口を閉ざし、握った書類を見下ろした。


 ページの端が、わずかに濡れていた。

 汗か、涙か、あるいは震えた指の痕か。自分でもわからない。


「……ですが、皆さま……」


 彼女はもう一度、顔を上げた。

 その目に、かつての凛とした光はなかった。


「私には、理解できないんです」


 彼女の声が震え始める。


「笑っていたんです……あの男は……」


 会議室の空気が、わずかに軋む。


「牢の中で。拘束された状態で、誰とも話さずに、ただ……ただ、じっと座っているだけで、笑っていたんです」


「……セリア。落ち着いてくれ」


 老幹部の一人が声をかけるが、もう止められない。


「違うんです。彼は、感謝していた。誰も彼に与えていないものを、“与えられた”と受け取っていた。看守の怒声に、私の尋問に……あの目で、笑っていたんです……!」


 言葉のリズムが崩れていく。

 胸元の装飾が小さく揺れ、書類の束が手の中でしわになった。


「……そんなわけがないんです。そんなの、人間じゃない……」


「セリア。君は、冷静な判断が──」


「私は冷静です!!」


 声が跳ねた。

 会議室の壁にまで届いたその一撃に、数名の幹部が身じろぎする。


「……これまで、ずっとこの国で尋問にあたってきました。嘘を見抜く術も、心の動きも、感情の揺れも、全部……見てきたんです!」


 セリアは一歩、報告台の前に出る。


「けれど……あの男だけは、違った。あの目を、あの声を、あの“感謝”を、誰が正気のものだと……!!」


「セリア……」


「お願いです、わかってください!」


 もう報告ではなかった。


 叫びだった。

 懇願だった。


 尋問官としての衣を脱ぎ捨て、ただ一人の“目撃者”としての魂の訴え。


「……あれは、祟りです。絶対に、ただの人間じゃない……!」


「セリア──!」


「……あれを、このまま見過ごしては、いけないんです……いけないんです……!」


 セリアの脚が崩れるようによろけた瞬間、背後から副官が駆け寄った。


「セリア様、もう十分です」


「違う、私は──っ、あれを、止めないと──!」


 そのまま抱えられ、引きずられるように会議室の扉へと向かう。


「信じてください……信じて……っ、お願いです……っ、あれは……祟り、なんです……!」


 扉が閉まる直前、彼女の声だけが最後に残った。


「……どうか、皆さまの目で、あの男を……“直視しないで”ください……!」


──バタン。


 扉が閉じた。


 そして、会議室は、静寂に包まれた。


* * *


 セリアが退室したあとの会議室は、しばらく誰も口を開かなかった。


 報告台には、彼女が握りしめていた資料が数枚、くしゃくしゃになって残されていた。

 その上に、淡く乾いた汗の跡。


「……一言で済ませるのは難しいが」


 最年長の幹部が、低く口を開いた。


「……あれは、完全に取り乱していたな」


「だが、嘘はなかった」


 もう一人が言った。


「提出された報告書類に虚偽の記載はない。事実だけを並べても、異常だ。異常すぎる」


 重たい空気が円卓を包む。


 誰も、笑わなかった。

 セリアの挙動を“ヒステリー”と一蹴できる者は、そこにはいなかった。


「──判断を」


 沈黙を破ったのは、記録官を兼ねる事務将校だった。


「対象“佐藤マサシ”について、今後の取り扱いを」


「処刑……というわけにもいくまいな。実害は確認されていない」


 将軍が腕を組む。


「かといって野放しにもできん。兵士が一人でも“信者”になるなどという話は、今まで聞いたこともない」


「……つまり、“人畜無害な災厄”ということか」


 誰かの皮肉混じりの言葉に、小さなため息が漏れる。


「……教会だな」


 一人が言った。


「神学的存在、または神格化の可能性がある異常個体については、教会管理下に置くのが適当だろう」


「“神様ごっこ”をさせておけ、ということか」


「そうだ。それで事態が収まるなら、安いものだ」


「……崇拝という檻に、閉じ込められるなら」


 誰かが静かに呟いた。


 そして、誰も反論しなかった。


 やがて最長老の幹部が、静かに言い渡す。


「──決定する。“佐藤マサシ”の管理・観察を、王都大教会へ一任。騎士団は引き渡しを行い、以後の処遇には関知しない」


 その言葉とともに、書記が記録用紙に羽ペンを走らせた。


 インクが染み、命令が刻まれる。


 それは──“神の器”とされた男に対する、最初の公式な措置であった。


* * *


 その頃、騎士団地下牢。


 薄暗い石壁に囲まれた小さな房で、一人の男がくしゃみをした。


「……へっくしゅん!」


 鼻をすすりながら、鉄格子の外を見上げる。

 どこからか差し込む陽光が、空気中の塵を照らしていた。


「……?」


 佐藤マサシは、ぼりぼりと首輪の下をかきながら、のんびりと独り言を漏らす。


 手足には軽い拘束具。鎖のきしむ音すら、彼にとっては子守唄のようだった。


「セリアさまの……水ぶっかけてくれたやつ、あれは良かった……」


 にやにやと笑いながら、丸めた藁の寝床にごろりと横になる。


「また怒鳴ってほしい……」


 両手を組み、胸の上にのせる。

 まるで祈るように。


「……はぁ、セリア様の尋問……まだかな……」


 そう呟いたあと──マサシは、ただ静かに目を閉じた。


 房の外には誰もいない。

 返事も、物音も、何もない。


 けれど──


 その顔には、心からの“安らぎ”が宿っていた。


 まるで、全てが赦されているかのような。

 何も求めず、ただ与えられることに身をゆだねる、神に仕える者のような──


「……幸せだなぁ……」


 誰に向けるでもなく、マサシが呟いたそのひと言だけが、牢の奥に溶けていった。

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