第6話:矯正教育者、悟りに導かれる

 ──冷たい石の天井。


 闇市で売られて数日間。それを見つめるのが、朝の日課だった。


 まばたきの音すら吸い込まれるような、静けさの部屋。

 鉄格子はなく、分厚い扉が隔てられているだけ。

 ただ、そこにひっそりと存在している“奴隷”が一人。


 佐藤マサシ──。


「……飼い主のいない檻は、こんなにも、寒いのか……」


 ぽつりと呟くその声には、寂しさでも絶望でもなく、まるで“祈り”のような温度があった。


 * * *


 闇ギルド・第七収容区。

 特殊な思想矯正が行われる“再教育区画”。


 その監督を任されたのは、教育係のザインだった。


 無口で実務的。特に思想矯正や洗脳においては、ギルド内でも高い評価を受けている男である。

 彼の矯正は“音”を奪う。

 叫ばせず、泣かせず、語らせず、ただ静かに「自我」を消していく。

 そういう手法だ。


 ──が。


「……やりづらい」


 鉄扉の覗き窓から中を見て、ザインは低く呟いた。


 男はただ座っている。

 それだけで空間が歪んでいるように見える。

 まるで、空気の密度が違う。


 マサシ──“あの奴隷”は、確かに鎖に繋がれている。

 なのに、その目が、心が、全く繋がれているように見えない。


 ザインは教育ログの冒頭に、こう記すことになる。


 《壊れているわけではない。既に『完成』しているのかもしれない 》


 それは教育者として、ある種の──恐怖だった。


 * * *


 初日は、定型通りの導入から始まった。


 教育係ザインは、マサシの鎖を外し、部屋の隅に立たせた。

 椅子は与えない。座る自由を“奪う”のが基本である。

 名前も呼ばない。「番号1671」。それが、彼のコードだった。


「……お前に名前などない。名も無き存在だ」


 静かに、冷たく、突き放すように。

 だが──マサシは、ふっと微笑んだ。


「はい。私は犬です。名も無き犬です。……飼い主様、ありがとうございます」


 ザインの手が止まった。


「……違う。“飼い主”ではない」


「では……ご褒美係様、でしょうか?」


 返す言葉が見つからなかった。


 * * *


 その日から、“矯正”という名の地獄が始まった──はずだった。


 朝の水は、一日分をわざと濁らせたもの。

 食事は与えない。飢えさせ、思考力を落とすのが目的。


 だが。


「……飢えは、三大欲求のうち最も深く語りかける試練……。ありがたいです」


 マサシは、指で床の水跡をなぞりながら、小さく頷いた。


「“食”への執着があるからこそ、私はまだ人でいられる。……失わないで済んだことに、感謝を」


 ザインは、その日のログに記す。


 《思考の崩壊は見られない。むしろこちらの言葉に哲学的な返答を繰り返す。処理困難 》


 翌日は無視。完全無視。


 矯正官として、対象に一切の関心を示さないことで、“存在の不安”を煽る手法だった。


 だが、マサシは静かに正座をし、壁に向かって語りかけていた。


「無視される……つまり無視するという行為が、そこに私が居るという証。ご褒美様の愛を感じます」


 ザインは、またログに書いた。


 《精神崩壊の兆候なし。いや、最初から“別の完成形”なのか。だとすればこの男……》


 * * *


 三日目の夜。

 ザインは初めて、規定外の行動を取った。


 部屋の灯りを落とし、ただひとりで収容室の前に立ち、覗き窓を開けた。


 マサシは、正座をしていた。眠っているのではない。

 目を閉じて、何かを“受け入れている”ような、そんな姿だった。


 その顔が──祈る者の顔に見えた。


(……なぜ、罰を“愛”として受け取れる?)


 呻くように呻いて、ザインは扉を閉めた。

 手の震えを止めるのに、しばらくかかった。


 《ログ外記録:対象と対話したいという欲求が自分の中に生まれた。教育係として異常》

(この男は──超越者......俺が、この俺が矯正されているのか? 導かれているというのか??)




 四日目の朝。


 ザインは、教科書通りの洗脳スクリプトを手放していた。


 代わりに、持っていたのは──ひとつ質問。


 重たい扉の向こう。椅子も床も使い込まれた収容室で、マサシは静かに正座をしていた。


「……佐藤マサシ」


 初めて、名前で呼んだ。


 その瞬間、マサシの肩が震えた。

 その顔は打ち捨てられた子犬のようであった。


「私は犬です!名も無き犬です、ご褒美様!」


 涙ぐんだ目でこちらを見上げるその顔に、ザインは視線を逸らした。


「……なぜ、そんなにも……冷静に狂えるのだ?」


 問いかける声は、教師のものではなかった。


 マサシは、わずかに首をかしげる。


「私の中では正常です──ある種の人から見たら狂っている様に見えるだけで」


「……わからない」


「誰かにとって奪われたと思うことが、

 私にとっては与えられたと感じる……それだけ。十分なんです」


 ザインは言葉を失った。


 * * *


「お前は……なぜ、自らを“奴隷”と認めながら、何故あれほど高貴な眼差しをする?」


 吐き捨てるように、呻くように。


 その問いに、マサシはゆっくりと答える。


「……それは、“足るを知る”から、です」


「足るを知る?」


「欲しがるのは、人の本能。でも私はそれを──選択を欲しがる気持ちを捨てました」


「……なぜ」


「自由には、責任が伴います。選ぶことには、罪がある。だから私は、命令を望みます。

 命令されることで、選ばずに済むから。失敗しても、それは私の責任じゃない」


 マサシの目は静かだった。


「……私は、自分を“使ってくれる誰か”が必要なんです。自分では、自分を正しく使えないから」


 ザインの背筋に、冷たいものが走った。


 この男は、本気でそう信じている。


「……でも、そんなのは……」


 否定しかけて、言葉が詰まる。


 そう、“でも”の先が──出てこない。


 それは、なぜか。


 ザインの中に、ほんのわずかでも「そうかもしれない」と思った自分がいたからだ。


 * * *


 会話の主導権は、完全に逆転していた。


 マサシは質問に答える側でありながら、ザインの中の“問い”そのものを生み出していく。


 まるで、答えの側に立ちながら、問いを生み出す“教祖”のように。


「……あなたも、疲れていませんか?」


 不意に、マサシが言った。


「命令する側は、孤独です。……でも、命令される側には、絶対の安心がある。

 “どんな命令も受ける”と決めてしまえば、迷いも恐れもない。そこには、究極の平穏があるんです」


 ザインは立っていられなかった。

 その場にしゃがみ込み、頭を抱える。


(……違う……俺は、組織に命令されてきた。俺にも自由はないはずだ。何が違う??)


 脳裏に、浮かぶ。


 命令に怯えながら過ごした訓練時代。

 上官の顔色ばかり見ていた、ギルド入り直後の日々。


(俺は……本当は、最初から……)


「……捨てていなかったのか……」


 呻くように吐いたその言葉に、マサシはただ静かに、頭を下げた。


「ようこそ、こちら側へ。……同志ザイン」


 * * *


 ──騎士団詰所・朝。


 書類を整理していたセリアは、報告に来た部下の声を聞いて動きを止めた。


「……捕縛した闇ギルド員が、一人の奴隷を連れて自首してきたそうです」


「奴隷……?」


「はい。ただ、その……ちょっと……」


 嫌な予感がした。


 セリアは静かに立ち上がり、詰所の奥へ向かった。


 ──扉を開く。


 そこにいたのはマサシを見たセリアは思わず扉を閉める。


「…………」


「おぉ……セリア様!?」


 扉の向こうで聞こえる歓喜の声に、全身鳥肌が立つ。


 血の気が引いて青白くなった顔のセリア。


「……やはり祟りだ……」

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