第18話 水を払う手

 茶会の終わりを告げる声が響いたあとも、南庭園の空気はすぐには和らがなかった。甘い薔薇の香りはまだ漂っているのに、花々の間には沈黙が広がっている。

 視線を背に受けながら、イオーラは回廊へと運ばれていた。抱きかかえるレイヴィスの軍服からは、ぽたり、ぽたりと水滴が落ち、石畳に小さな円を描く。

 すれ違う侍女や兵士たちは一様に足を止め、目を見張った。氷帝が誰かを抱いたまま廊下を歩く姿など、そうあるものではないのだろう。

 しかし、その灰色の瞳は一度も周囲に向けられることなく、真っすぐ前を見据えている。


「……陛下」


 ようやく声をかけた。降ろしてほしいと言うつもりだった。だが、言葉の続きを口にする前に、その横顔を見てしまった。


 水に濡れた髪が額に張り付き、長い睫毛の先からも雫が落ちる。整った額からまっすぐ通った鼻梁、無駄のない口元の線。鋭いばかりと思っていた顔立ちは、こうして間近に見ると、彫像めいて均整が取れている。

 その事実に、イオーラは一瞬、言葉を失った。


 私室に着くと、扉が音もなく閉じられた。

 レイヴィスは彼女を床に降ろし、無言で濡れた外套を脱ぐ。厚手の布が椅子の背にかけられ、滴る水が床に落ちる。軍服の肩口からもまだ雫が伝い、手袋を外す動作のたびに光を反射した。


「お怪我は?」


 イオーラは姿勢を整えて問いかけた。返事は、軽く首を振るだけ。代わりに袖口の水を払う仕草が返ってくる。

 ふと、彼は手の動きを止め、低く呟いた。


「——水は、冷えるよりも重くなるものだ」


 唐突な言葉に、イオーラは瞬きをする。


「人も同じだ。守りの鎧を濡らせば、重さに足を取られる」

「……今日のことを、仰っているのですか」


 問いかけても、答えはない。

 ただ、外套をまとめて侍従に手渡すと、肩越しに一瞬だけ彼女を見る。その青灰色の瞳には、庭園で見た氷の光とは異なる、微かに柔らかい陰影が宿っていた。


 そのまま視線を外さず、低く、しかし確かな声で続ける。


「見事な采配だった」


 唐突に褒められた言葉に、イオーラは息を呑む。


「その立場を使ってうまく茶会の流れを整えたな。あれは容易ではない」

「……お褒めにあずかり、恐れ入ります」

「一つ助言するなら——敵意は、必ずしも声に出ては現れぬ」


 淡々とした口調だが、その奥には確かな警戒が感じられる。


「……レイティスはしばらく城への出入りを禁止する。……そなたのせいではない。茶会の主催者としての責任をとらせる。ようやく戦争を終わらせることができそうだというのに、皇国との関係悪化を助長させるようなことを見逃しておくわけにはいかんからな」


 イオーラは短く息を呑んだ。フェルシア公爵家は常にレイヴィスを支えてきた。その公女を遠ざけることは、帝国内部での立場に影響を与えかねない。しかし、皇帝としての決意の重さを思えば、口を挟むべきではないと自分に言い聞かせた。

 静かに頷いたイオーラに、レイヴィスはふと視線を逸らす。


 短く間を置き、問いかけた。


「なぜこの国に来た? リッツェルから、交渉の場には初めからそなたの姿があったと聞いている」


 思いもよらぬ質問に、イオーラは一瞬、息を呑んだ。だが、その瞳には詮索ではなく、純粋な興味が宿っていた。


「……父母も姉妹弟も嫌ってはおりません。弟は特に慕ってくれていました。けれど、姉妹の中で、この国を出ることができたのは私だけだったでしょう」


 声は静かだが、言葉は迷いなく紡がれる。


「政治や軍備に興味を持つ私は、女らしくないと遠巻きにされてきました。お陰で帝国が皇国に来るまでは日陰者でしたよ。けれどずっと……何かを為してみたい、という気持ちがあったのです」


 答え終えたあと、短い沈黙が降りる。

 レイヴィスは表情を変えずに彼女を見ていたが、その瞳の奥に、わずかな光が揺れた気がした。

 その瞬間、イオーラは改めて彼の整った顔立ちに気づく。庭園では仮面のように冷たく見えた顔も、私室の静けさの中では人間らしい輪郭を帯びている。


「——重さに足を取られるな」


 先ほど庭園で言った言葉が、再び低く響く。意味を問う前に、彼は袖口の水を払い、外套を侍従に渡した。


「着替えを。……風邪を引く」


 命令とも忠告ともつかない言葉が落ちる。

 イオーラは軽く会釈し、部屋を辞した。


 廊下に出ると、袖口はまだ冷たかった。けれど、その冷たさの奥に、先ほど垣間見た人間らしい温もりと、庭園での氷の光の余韻が、微かに残っていた。

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