第17話 薔薇と氷の抱擁
南庭園では、薔薇の甘い香りが満ちていた。
貴婦人たちは花々に目を細め、和やかな会話があちこちで弾んでいる。
イオーラはその様子を静かに眺めていた。
『多くの方々は、この場を楽しんでいるのだな……』
心の中に少しだけ安堵が広がる。
彼女が心配していたほど敵意は強くない。しかし、その静かな波の下には確かな緊張も感じられた。
視線の端にレティシア公女の冷ややかな表情が浮かび、イオーラは気を引き締めた。
彼女としては立場のない状況となった。この状況は大いに不満があることだろう。
「殿下、少しお飲み物を用意しました。ずっと御婦人方とお話になっていらっしゃいましたので」
マグリットが横からアイスティーを差し出す。
「ありがとう。それにしても助かったわ、マグリット。なんとかこの場を収められそうよ。あなたの手腕のお陰ね」
「いえ。殿下のご采配がよろしかったのでございます」
マグリットがそっと離れると、イオーラは深呼吸をひとつした。
その時、遠くからかすかな物音が聞こえた。
――何かが動いている。
イオーラは軽く顔を上げ、周囲を見渡したが、誰も特別な様子はない。
だが、その瞬間、ヤンの叫びが響く。
「殿下、上です! 避けてください!」
イオーラは慌てて身を引こうとするが、一歩踏み出すのが遅れた。
その瞬間、背後から強い影が駆け寄る。
——バシャッ
冷たい水がイオーラの頭上をかすめる直前、レイヴィスが身体を翻し、盾のように彼女を包み込んだ。水はレイヴィスの全身を濡らし、重厚な軍服に滴り落ちる。
庭園に漂う空気が一変し、緊迫した沈黙がゆっくりと辺りを覆った。
「……陛下」
イオーラが息を呑む。
「大事はないか」
レイヴィスは心配そうに声をかける。
「私は大丈夫でございます」
イオーラは柔らかく答えながらも、その視線は冷たく鋭いままだ。
「それより……陛下の方が……」
イオーラの言葉を遮るように、レイヴィスは静かに、しかし確固たる声で告げた。
「この場でのいさかいは、許されぬ」
その一言が庭園の空気を凍らせ、策謀を巡らせた者たちの背筋に冷たい震えを走らせる。
氷帝と呼ばれるゆえんを、イオーラはその眼光から垣間見た。
彼女は濡れた皇帝の軍服を見上げ、胸の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。
そのまま、レイヴィスは優しくイオーラを抱き上げる。
これでもイオーラはそれなりに体を鍛えてきたが、それをレイヴィスは軽々と持ち上げた。大勢の前で恥ずかしいはずなのに、不思議とその包容感に居心地の悪さは感じなかった。
レイヴィスは抱き上げたイオーラの小さな身体が自分の胸に触れ、細かに震えていることに気づいた。強くあろうとする一方で、味方のいないこの城でどれだけ孤独と戦っていたのだろう。少しだけ、抱き上げた腕に力が入る。
「今日の茶会は終わりだ」
レイヴィスの言葉は、揺るがぬ強さを帯びていた。視線を向けるイオーラの胸に、確かな支えを感じる。
「ヤン、近衛と共に手を尽くせ。必ず真相を暴いて報告せよ」
その声が、緊迫した空気の中に響いた。
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