第二章 「紙と湯気と不一致」

語り手:林(書店員・業務日誌)


2025年4月22日(火)/天気:曇りのち雨


開店9:58。誰も並んでいない。が、ドアは毎朝同じタイミングで開けると決めている。それが自分の仕事の輪郭を保つ方法だ。

この店は、駅前の再開発から外れたほうにある。だけど、立地がいい。だから、そこそこ人が来る。蔦屋のような洒落た意匠はないが、紙と文具が好きな人たちが、くすんだ棚に吸い寄せられるように集まる。


店内奥に併設されているカフェでは、今朝も岡田さんが豆を挽いていた。

彼女が淹れるコーヒーは本物だ。豆はみちくさからの仕入れで、毎週風味が少しずつ違うのが面白い。ドリップ中にほんの少し香りの粒が跳ねる。ラテにも無理に甘さを載せず、牛乳の温度と質感で輪郭を出す。


ただ、わかって飲んでいる人は少ない。

ラテを受け取って3秒でスマホを構え、斜め上から撮って、飲まずにそのまま帰る客もいる。

岡田さんは何も言わない。黙って次の豆を挽く。そういう仕事の仕方が、自分には少しだけ羨ましい。


午前11時。文具売場で高校生がシャープ芯を選んでいた。0.3か0.5で議論している。「薄いとすぐ折れる」「でも字がきれいに見える」と言い合いながら。自分なら在庫が多い方を選ぶ。業務効率の話だ。


昼、裏の休憩室で三好さんが弁当を広げながら「最近の小説って、引き算しすぎ」と言った。

“読者の想像力に委ねる”のが流行らしいが、私は読者の想像力をあまり信用していない。というより、自分の読解力に甘えたくない。だからマニュアルは全部読む。あたりまえのことだ。


15時。雨。傘を片手に入ってきた親子が「交換日記ってどこですか?」と尋ねてきた。

児童文具コーナーを案内すると、子どもが「これってほんとに秘密書いていいやつ?」と母親に聞いていた。

「ママも昔書いてたけど、今読むと恥ずかしいなぁ」

母親は笑っていた。

交換日記が秘密を運ぶ媒体だという感覚は、悪くない。が、それはこの商品がPB品で、JANコード498から始まるという事実とは無関係である。


17時。棚を一通り直し、返品対応の記録を帳面に書く。紙に残すのは、こういう時だけ意味がある。


高校時代、自分もあの学校で交換日記を見た気がする。渡されはしなかったが、誰かが書いていた。自分が書くのは、こういうものになった。


紙は好きじゃない。だが仕事は、まあ、好きだ。

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