吾輩は交換日記

みちくささん

第一章「名もなき日記、名ばかりの青春」

吾輩は交換日記である。名前はまだない――と書けば、あの名著を思い出す人もいるだろうが、残念ながらこちらに猫の毛一本たりとも生えてはいない。ただの紙束、リング綴じ、横罫、既製品。思想も哲学もない。ましてや人間観察など趣味でもない。


だが、書かれたことは忘れない。

それが、日記として製本された身の宿命というものである。


最初に記入されたのは、公立・祥風高校の2年A組。

名前だけ聞くと進学校かと誤解されるが、実情は中の上。自慢できるほどでも、卑下するほどでもない。平均より、ほんのわずかに良いくらいの立ち位置にあり、それが逆に生徒たちの“身の置き場のなさ”に拍車をかけているようにも見える。


たとえば、ここの生徒たちは、漠然と夢を口にすることに慣れている。将来の進路調査にも「心理学系」「看護系」「メディア関係」といった、どこかで聞いたような言葉が並ぶ。ただ、その夢の実現に必要な学力、体力、あるいは経済的条件について真剣に計算し始めるには、まだ少し早いし、少し遅い。そういう時期に、彼らはいる。


最初のページに筆を入れたのは、椎名ひかりという生徒だった。


《1ページ目 椎名ひかり》


2025.4.18


今日の体育、マジきつかった〜

バスケって言うけど、あれ、もう部活じゃん(笑)

てか、体育館、空気悪くない?ぜったいホコリ吸ったわ

髪バサバサなるし、最悪。汗で前髪死んだし。


で、放課後ゆいと駅前のプリ機で撮ったやつ、見た!?

やばくない?まじ盛れてた!!(3枚目のやつね♡)

ちなみに今日はレモンタルト食べた。しあわせ〜🍋


次、さーや、よろしく〜✌️


内容は日常の断片である。文章の構造は短く、話題は飛び、文末には絵文字か「〜」が添えられる。何が重要で、何がどうでもいいのか、書き手自身も意識していない様子である。

それでいて、妙な含みのある一文が挿入される。


「てか、あのハンカチ、見た??」


具体性はない。だが、見た者には伝わる“前提”がここにある。

人間関係の歪みは、こうした曖昧な共有から始まる。記録媒体としての吾輩は、これが何かの分水嶺になり得ることを、過去の観察からすでに理解している。


続くページに現れたのは、佐伯紗耶。椎名と同じグループに属し、口数が少ない割に観察眼が鋭い。彼女は躊躇なく、あの曖昧な一文を明文化した。


《2ページ目 佐伯紗耶》


2025.4.19


見たよ、ハンカチ。あれって名刺ついてなかった?

てかあの子、やっぱりそうなんだねー、親が病院関係ってやつ。

言ってなかったけど、うちの母が前に勤めてたとこらしい。

てか、ぶっちゃけ、名刺って持ち歩く?普通?

ま、いいけど。


今日の英語表現、マジ無理だった。単語、全部知らん。

進研模試まであと何日だっけ?

てか、椎名、次のプリ機、あたしも混ぜて〜(笑)


次、古賀くん!書いてくれるよね?笑


誰が頼んだわけでもないのに、交換日記の“流れ”が発生していた。

「軽口で始まり、やや鋭く踏み込み、次の誰かにフリを投げる」という一種のテンプレート。自然とそうなるあたり、このクラスがいかに“空気の読み合い”で構成されているかが見て取れる。


そして古賀瑛太。佐伯の指定によって半ば強制的に次の書き手とされた、地味な男子生徒である。部活は帰宅部。将来は理系進学を希望しているが、成績はまだそれに届かない。メガネをかけているが、視力は実はそんなに悪くない。


《3ページ目 古賀瑛太》


2025.4.20


書けって言われたんで書きます。

交換日記って、書く方より読む方が面白いよね。

前の2人が書いてた件、正直よくわかってません。

でも名刺くらいでそんなに言うこと?って思う。


ちなみに自分、今日の昼は購買の焼きそばパンでした。

座るとこなくて、階段で食べたら膝にソースこぼした。

そのあと先生に呼び止められて、制服にケチャップついてるって指摘されて最悪。


あと、模試の範囲って、どこでしたっけ?

数学、マジでヤバい。


次、誰か書く人いなかったらまた自分でいいですよ。

むしろ理科の話とかしたいし。以上。


理屈っぽく、淡白だが、文章の構成は整っている。

感情は希薄に見えるが、“誰か書く人いなかったらまた自分で”という一文に、わずかばかりの“属していたい願望”がにじむ。


吾輩はこの時点で、おおよその構図を理解した。

グループの中心にいる女子、言葉を操る周辺の女子、流れに巻き込まれる男子。

小さなクラスの中で、誰が誰に何を求め、誰が誰から目をそらしているのか。


この日記は、誰に命じられたわけでもないまま、“書きたがる人”と“書かされる人”と“書くふりをして何も言わない人”によって、少しずつページを埋めていくことになる。


その過程にドラマがあるかどうかは、吾輩の知ったことではない。

吾輩はただ、事実を記録する。

それが紙であることの、本分だからである。


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