第2話『無垢と無知』
どのくらい見つめていたのだろうか。
使節様の口元が、わずかに動きかけた――返事をしなければと咄嗟に思い、私は慌てて立ち上がった。
その拍子に手がインク瓶に触れ、カツン、と乾いた音を立てて床へ転がった。
墨はゆっくりと床にこぼれ、石の目地へとじわりと染み込んでいった。
「……あ、あああっ、すみません!」
誰に向けたともわからぬ声が、反射的に口をついて出た。
周囲の修道士たちの筆の音が一斉に止まり、幾人かがちらりとこちらを見る。その冷ややかな視線が、まるで無言の非難のように感じられて、一層私を焦らせる。
急いで布を取り、床を拭いながら、羞恥に顔が焼けるほど熱くなる。
それでも視界の端に、微動だにせず立つ使節様の姿が映っていた。
ただ静かに――だが圧倒的な存在感を放っている。
ようやく始末を終え、私は立ち上がる。
向き直った刹那、彼は待ち構えていたように口を開いた。
「我が名はヴァルド。神聖ローマ帝国より派遣された、聖庁付きの使節だ。
君がノエで間違いないな」
ノエ「は、はい…」
その声には静かな威厳があり、一語たりとも聞き漏らしてはならない――そんな緊張が胸を締めつけた。
ヴァルド「話がある。ついてこい――ここでは話せん」
私の返答を待つこともなく彼は踵を返した。
迷いのない足取りで音も立てずに廊下へと消えていく。
私は息を詰めたまま、その背中を追った。
修道士たちは誰ひとり声を発せず、ただ沈黙だけが場を支配していた。凍りついたような空気が、私の周囲をじわじわと締めつけていた。
写本室を出ると、廊下の冷たい空気が肌を撫でた。
高い天井には、薄く削られた石造りのアーチが連なり、窓からの陽光が淡く落ちて、床に規則正しい格子模様を描いている。
廊下を数歩進んだ先――少し離れた柱の間に、黒衣をまとった使節様の姿があった。
柱の影と光が交互にその姿を照らし、まるで彫刻のような厳粛さを漂わせている。
私は、おずおずと歩を進めた。
足音を立てぬよう、慎重に石の床を踏みしめる。
近づくにつれ、その存在感が空気の重さとなって迫ってくるようで、喉がひとりでに鳴った。
やがて使節様の傍らで立ち止まる。
ヴァルド「大司教様が君を指名された。詳しい理由は私にも明かされていないが、君でなければならない、とのことだ。今写している書は、近々完了すると聞いている。次は――この書を」
視線がこちらに向けられたあと、声音が少しだけ変わった。
ヴァルド「……興味深いな。君は、まだ内容も知らぬうちから“はい”と答える顔をしている。なぜだ。疑問を持たないのか?」
ノエ「え? 疑問……ですか……」
ヴァルド「君は、何を写すのか。なぜそれを写すのか。考えたことはないのか?」
ノエ「……それは……意味を考えるなと……教えられていて……。だから……知らなくてもいいと……」
ヴァルド「なるほど。では、なぜ“考えてはいけない”のか――それについて考えたことは?」
ノエ「な、なぜ……」
自分でも驚くほど、返す言葉が浮かばなかった。
このように誰かに問われることも初めてで、
今まで一度も考えたこともなかった――
なぜ、写本生の身で“考えてはいけない”のか。
なぜ、孤児である自分は、問うことすら許されないのか。
思考がぼんやりと巡るなか、ふと視線を上げると、使節様がじっとこちらを見ていた。
そして、わずかに口角を動かすと、低く言い放つ。
ヴァルド「……あの写本室長の教えか。実に徹底しているな。君は従順というより、無思考の習慣に最適化された存在だ。“制度的沈黙”の申し子らしいな」
ノエ「……せ、せいどてきちんもくのもうし子……? す、すみません。使節様のその言葉の意味が、よくわからなくて……」
沈黙という言葉は分かっても、全体の意味までは理解できなかった。
音のない間が、二人を包んだ。
その後、わずかに目を細めて、使節様が問う。
ヴァルド「……君のその戸惑い方は、ただの語彙不足ではなさそうだな。普段、自らが書き写している文字の“意味”すら知らずに筆を動かしているのか?」
ノエ「あ…は、はい…それも考えるなと…」
ヴァルド「…なるほど。考えるなと命じられた結果、君は知ることすら放棄したというわけだな。ある意味、従順の極致だ。皮肉でも何でもなく、
ノエ「キョウタン……」
思わず眉間に皺を寄せてしまう。耳に残るその響きの意味が、すぐにはつかめなかった。
使節様はわずかに首を傾け、観察するようにこちらを見つめた。そして浅く息を吐く。
ヴァルド「……驚いた、という意味だ。君の従順さが、そこまで徹底されているとは思わなかった」
そう言うと、先ほどまでいた写本室に一度視線をやり、何かを測るように黙考する。やがて、またこちらに目を戻してきた。
ヴァルド「歳は? いつからここにいる?」
ノエ「十八です……物心ついたときには、もう……」
見つめられているというより、まるで書物を読むように、私の全てを解読されているような気がした
ヴァルド「……ほう。……十八、物心ついたときから、か」
ヴァルド「それにしても、君は実に稀有な存在だな。この修道院で、技術と知識が、ここまで綺麗に切り離されているとは」
ヴァルド「――この十八年、誰一人として、君に“意味”を教えようとしなかったのか?」
ノエ「……は、はい…誰も…。それは、君が知る必要のないこと、教えられることではない、と…」
ヴァルド「……知る必要のないこと、か。ずいぶん都合のいい表現だな」
(小さく息を吐き)
ヴァルド「では問おう。君はその言葉を、一度も疑ったことはなかったのか?
なぜ自分だけが、“知ることを許されない”のかと」
頭の奥で、何かがぐらりと揺れる。
考えてはいけない。問うてはならない。
それはずっと、当たり前のように心の奥に沈んでいたはずのことだったのに――
ノエ「あ…その……わたしは、孤児、だから……それが、当然のことだと……」
ヴァルド「……当然、か」
(少し間をおき、私を見据えたまま)
ヴァルド「君は、“与えられなかったもの”を当然と呼ぶのか。では、君が誰かに文字を教えられたのは、なぜだ? 技術は授けられた。だが意味は拒まれた。それは、同じ“孤児”であることの結果か?」
(わずかに首を傾げて)
ヴァルド「君の従順は、人格の証ではなく、構造の産物にすぎない。 だが――その構造に気づかぬまま生きる者を、人は“無垢”とは呼ばぬ。それは、“無知”と呼ぶのだ」
感情の色はなかった。ただ淡々と、冷たい水面のように、その言葉は放たれた。
ノエ「………」
返す言葉が、何ひとつ浮かばなかった。
“無知”――その一語が、胸の奥深くに重く沈む。
「お前には必要のないことだ」と、呪文のように言われ続けてきた。
問えば、叱られ、諭され、やがて私は、知ろうとすること自体が、怖くなっていた。
いつしか、その諦めという感情すら手放し、忘れていたのだ。
今、目の前の使節様は問う。
“なぜ”と。“誰がそれを決めたのか”と。
――私が知ることは、悪いことなのだろうか?
心の内に、ひとすじの問いが光のように差し込んだ。
ノエ 「……わたしが、知ろうとすることは……許されるのでしょうか……」
ヴァルド「……誰かの許しを求めるとはな。 君は“他者の支配”から抜け出す覚悟すらないのか。 知識とは、命じられて得るものではない。 そして、君がその言葉を口にした時点で、すでに一線は越えている」
頭の内側で、何かが渦を巻いているようだった。
考えようとするたびに思考がもつれ、定まらない。
言葉を探しても、すぐに霧に呑まれていく――
ノエ「……すみません。何が正しいのか、わからなくなってきて……。 ただ、こんなに頭が動いているのは……初めてで……」
ヴァルド「頭が動いている自覚があるなら、まだ救いはあるな。“わからない”と言える者は、“知ろう”とする者だ」
そう言いながら、使節様は手にしていた写本の原本をこちらへと差し出す。
まるで、その重みごと――問いと選択を手渡すように。
ヴァルド「依頼の原本だ。今の写本が終わり次第、それに取り掛かれ。 それと……“知りたい”のなら、私の部屋に来るといい。……その時はその原本を持参しろ。」
そう告げると、黒衣の裾をわずかに揺らし、やがてその背は光と影の向こうに消えていった。
あとには、一冊の本と――立ち尽くす私だけが残された。
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