写本生ノエ
べやん。
修道院編
1425年
第1話 『静寂の写本生と黒衣の使節』
私はその日も意味を知らぬまま文字を写していた。
――黒衣の使節様が現れるまでは。
1425年。神聖ローマ帝国南部、山岳にたたずむ格式高い修道院――
朝の祈りを終えた修道士たちは、もう食堂へ向かったのだろう。石床を打つ足音が遠ざかり、写本室には再び沈黙が戻った。
高い窓から差し込む朝の光が、ほのかな黄金色を帯びて、机の上を静かに滑っていく。羊皮紙に映ったインク瓶の影は、まるで小さな日時計のように、ゆっくりと長さを変えていた。冷えた空気に溶けるインクの匂いが、私の鼻先をかすめる。
他の修道士たちの頭頂には、戒律に従った剃髪の環がある。だが私の髪だけは刈られることはなかった。
淡金の髪が朝の光に照らされ、わずかに揺れる。
写本室の誰も振り返らない隅の席。
物心ついた時から私はずっとそこにいた。
私に与えられた役目は、ただ「写す」こと。
古くなり劣化した貴重な書物を、インクと羊皮紙を用いて正確に複製する。何年も、毎日、ただそれを繰り返してきた。
(ノエ、ただ文字を写していればいい。内容を考えるな。それがお前の務めだ)
写本室長の声が、いまも耳の奥にこびりついている。私には書物の意味を知ることすら、許されていなかった。文字の形だけをなぞる道具。それ以上でも、それ以下でもない。
……意味を知りたいと思ったことは、何度もあった。
けれど気づけばその思いも薄れ、
やがて諦めさえ抱かなくなっていた。
そう――これは常識。
私にとっての、世界のすべてだった。
「……孤児だから」
手が止まり、ぽつりとつぶやく。
外へ出ることを許されないのも、
修道院の中で、なぜかひとりぼっちのように感じるのも、
食事の時間さえ、修道士たちとは離れた場所で過ごすのも、
与えられた活動範囲が、ごく限られた場所であることも、
意味のわからぬ文字だけを、ただ写して生きてきたのも――
それら全ては、神が私に与えた運命なのだ。
それでも一人だけ、私に優しく声をかけてくれる修道士がいた。その人のまなざしだけは、どこか柔らかく、他の修道士とは違うと思っていたのだ。
まだ幼かった頃、一度だけ、思いきって尋ねたことがある。
皆が当たり前のように使っている、意味のわからない言葉について。
「……あの!……聞いても、いいでしょうか……?み、皆さまがよく使っている言葉に、どうしても気になっているものが、あって……“セイジ”……“キョウヨウ”……それは……いったい、どんな意味なのでしょうか……」
彼は少し驚いたように目を瞬いた。
そしてすぐに目をそらし、苦笑いを浮かべる。
「えー……っと。そうですね……すみません、ノエ君。…私からはお答えできません」
その瞬間、心の奥で何かが静かに冷えた。
優しい顔をしていても、その奥にある、私を“下に見る”目は変わらないのだと悟った。
――居心地の悪い、長い一日がまた始まる。
私は小さく息をつき、ペンを握り直した。
*
気づけば朝食を終えた修道士たちが、一人、また一人と写本室へ入ってきている。誰一人、私という存在に目を向けることはなかった。
すると、ひそめた声が耳に届いた。
小柄な修道士「聞きましたか? また今日から、あの使節様が修道院に滞在なさるそうです」
写本室は本来、私語を慎むべき場所だ。それでも、ひそひそと話してしまう修道士は、あとを絶たない。
痩せた修道士「ええ……正直、あの方は少々苦手です。心の奥まで見透かされているような気がして……」
小柄な修道士「このあいだ、私などふたりきりになったとき、何気なく天気の話をしたんですよ。すると――」
声色を変え、使節様の口調を真似てみせる。
小柄な修道士「『君のような者が天候を話題にする時は、たいてい会話の糸口を見出せぬ場合だ。それが“晴れ”であれ、“嵐”であれ、私には関係のない話だな』――と、冷たい目でそうおっしゃったのです。参りましたよ、本当に」
私は黙って手を動かしながら、二人のやりとりに耳を傾けていた。使節様の噂話は、時折こうして聞こえてくる。どうやら、“冷たくて近寄りがたい人”らしい。
――もっとも、私が関わることなど、これからもないのだろうけれど。
そんな思考を遮るように、ふいに空気が張り詰めた。
小柄な修道士「……いらっしゃったぞ」
痩せた修道士「まずい、手を動かさねば……」
その緊張を肌で感じ取り、私は思わず筆を握り直した。
……写さなくては。
それでも今日ばかりは、視線が勝手に扉の方へと吸い寄せられてしまう。
そこに立っていたのは、黒衣をまとった、ひときわ背の高い男。黒髪は乱れなく整えられ、前髪は静かに横へ流れている。
立ち姿には非の打ち所がなく、ただ立っているだけで、ひと目でわかる――威圧と品格をまとう存在だった。
綺麗――
素直にそう思った。
何度かすれ違うことはあっても、いつも私は視線を伏せていたし、使節様も足早に通り過ぎていった。こうして真正面からその姿を見つめたのはこれが初めてだった。
その無表情な顔にはどこか厳しさがにじんでいて、目は伏せられていてもなお鋭く、まなざしの奥に冷たい光を宿しているようだった。気品に満ちたその顔立ちに、自然と目が奪われる。
見惚れているうちに、ふと目が合った……気がした。
はっとして、慌てて視線を羊皮紙へと戻す。
心臓が強く打つ。
わけもなく、手のひらが少し汗ばんでいた。
……視線を戻しても、手が震え、ペン先が紙にうまく乗らなかった。墨を吸った羊皮紙の表面に、わずかなにじみが広がる。
やってしまった。だが、拭うことも、修正することもできない。
つい先ほどまで私語を交わしていた修道士たちも、今はただ黙々と筆を走らせている。その沈黙の裏には、誰もが感じている張り詰めた緊張があった。
視界の端で黒衣の裾が静かに揺れた。
それが私のすぐ傍まで来ていることを示す。
「君」
低く、よく通る声が頭上から落ちてきた。
呼ばれたのは――間違いなく、私だ。
おそるおそる顔を上げる。
その眼差しがまっすぐ私を見下ろしていて、思わず息を飲む。
間近で見るその端正な顔立ちに、気づけばまた目を奪われていた。
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