第27話 大切な人

 黒い地面に降り立つと、腐臭がした。生き物が燃えるような匂いもする。

「ここは? まさか、瀬乃の知る記憶じゃないよね?」

 ルピカが尋ねると、先を歩いていた瀬乃が立ち止まった。

「ここは、呪いです」

 頭上をカラスが鳴きながら横切っていく。驚いたルピカは瀬乃の背中にしがみついた。

「おっと、うれしいですね」

 瀬乃が微笑む。

「今は、そんなこと言っている場合じゃないでしょ? 獅乃様は、呪いの中にいるの?」

 やはり思ったとおり、瀬乃の夢の中に呪いが入りこんでくるのと同様に、獅乃の夢にも呪いが入りこんでいるようだ。けれども、この不気味な夢の世界は、瀬乃の夢より深刻で、呪いが入りこんでいるというよりは、呪いそのものが夢であるように思われた。

「あそこを見てください。木があります」

 瀬乃が示した先には、黒い木が立っていた。その木を見た途端、ルピカの肌が粟だった。

「僕は行きます。ルピカはどうしますか?」

 行ってはいけない。

 ルピカの本能はそう警告を鳴らしていた。あの木は禍々しく、良からぬものがあると遠くからでもわかった。

「わたしも行くよ。怖いけど。獅乃様がいる気がするの」

 瀬乃が手を差し出したので、ルピカは握り返した。それだけでも、心に光が差したように力が湧いてきた。

「行きましょう。僕たちなら、大丈夫」

 ルピカと瀬乃は黒い砂丘を越える。地面から時折、ガスが噴き出す。その度に、腐った匂いがして吐き気をもよおした。

「ルピカ、僕のそばから離れないで」

 生ぬるい風が、正面から行く手を阻むように吹きつけてくる。微かに血の匂いが混ざっている。目を開けているのもやっとの状態で、とうとうルピカは足を止めた。

 瀬乃がルピカを抱き寄せて、人差し指を真横にひいた。すると風が割れて、砂が散った。

 体にのしかかっていた重しが下りて、ルピカは大きく息を吸いこんだ。

「少しは楽になりましたか?」

「うん、ありがとう」

「またすぐ元の状態に戻るでしょうが、今のうちに少しだけ休みましょう」

 うなずいてルピカはしゃがみこむ。目眩がして、今にも倒れそうになる。

「こんなところに獅乃様がいるなんて」

 長い間この場所にいれば、気が狂ってしまうのではないかとルピカは思った。

「これは、長月家の当主が受け継ぐ呪いです」

「どういうこと?」

「長月家が大きくなったのは、何代も、何代も前から呪いを家業としてきたからです。何十年、いや何百年も積み重ねてきた呪いを、兄さんは今、一人で受けているのです。それが、長月家を担う者の役目です」

 ──瀬乃は自由に生きてほしいんだ。おれの代わりにさ。おれは長男だし、規則を守らないといけないから。

 幼い獅乃の言葉が思い出されて、ルピカは唇を噛んだ。

「どうして一人でなんでも背負うの?」

 側に仕えていた時、獅乃は何も言わなかった。つらいとも、一言の弱音も吐かなかった。毎晩、毎晩、この呪いがはびこる夢の世界に囚われていたのかと思うと、ルピカの胸は張り裂けそうだった。

「わたしが、必ずお守りしますから」

 ルピカが顔を上げた時だった。

 風がまたやってきた。

『たすけて』

『たすけて』

 声がした。ぶよぶよした不気味な声。

『くるしい』

『くるしい』

 腐臭を含んだ生ぬるい風が、ルピカたちの顔をべたべたと触れていく。振り払うようにルピカが顔を上げると、突然目の前にあの木が現れた。

 木は焦げたように真っ黒で、細くギザギザに伸ばした枝には、大きくて丸いものが大量にぶら下がっている。

 それは、人間の頭だった。

『たすけて』

『たすけて』

『のろってやる』

『のろってやる』

 いくつもの頭がゆらりと揺れている。苦悶に満ちた顔。叫び声をあげた顔。泣いて赦しを請う顔。どれもが、浅黒く赤い色をしていて、男か女かも判別できない状態だった。

『にくい』

『にくい』

 頭たちはしゃべることをやめない。低く、しゃがれて、地を揺るがすような恐ろしい声。

「……瀬乃」

 がまんできずに、ルピカは瀬乃にしがみついた。

 その声に気がついた頭たちは、一斉に頭を揺らした。ぶんぶんと耳障りな音が辺りに響く。一つの頭と、ルピカは目が合ってしまった。落ちくぼんだ眼窩の奥に、不穏な光が揺れている。ルピカは口元を押さえた。胃液がこみ上げてきて、嘔吐しそうになる。叫び出した方が楽になるのではないかと思ったが、声が失われてしまった。

『おまえ』

『のろってやる』

 ぽっかりと空いた暗い口の中から、声が絞り出される。それを合図に、頭たちは一斉にわめき始めた。

『にくい』

『ゆるさない』

『たすけて』

『うらめしい』

 ルピカの耳元で、わんわんと声がこだまする。その声を聞いているだけで、気が狂いそうだった。

『くるしい』

『かなしい』

『のろってやる』

『のろってやる』

「ルピカ、耳を貸さないでください」

 瀬乃の手がルピカの耳を覆って初めて、ルピカは息を吸った。体の硬直が解け、瀬乃にもたれかかる。

「大丈夫ですか?」

「ありがとう」

 冷や汗が流れた。訳もなく涙が流れていた。その涙が自分の感情なのか、誰かの感情によるものなのかすら、判断が出来なかった。一刻も早くこの場所から立ち去りたい。楽になりたい。

 そんな場所に獅乃はずっといたのだ。どうして、気づいてあげられなかったのだろう。

 ルピカはずっと獅乃のそばにいたのに。苦しみを理解してあげられなかった。

「兄さんの気配がします」

 瀬乃はそう言って、手印を結んだ。ルピカが初めて見る印だった。瀬乃は手のひらを上にすると、ふっと息を吹いた。

 黒い木が大きく揺れた。地面がせり上がり、波を打つ。

『くるしい』

『くるしい』

 木の根元から、赤い液体が噴き出した。

『やめろ』

『やめろ』

 あっと、気がついてルピカは着物が赤く染まるのも気にせず、木の根元に走り寄って行った。木の根っこを掴んで、力の限り引っ張ると頭上で悲鳴があがった。

「獅乃様!」

 瀬乃も加勢に入り、二人は木の根を引きちぎった。ルピカはその場に膝を折る。

「獅乃様、ルピカです。ずっと戦っていたのですね。気づいてあげられなくて、ごめんなさい」

 体の半分が木と同化した状態で、獅乃は気を失っていた。手を伸ばして、獅乃の頬に触れる。途端、頭上の頭たちがわめきだす。

「兄さん、僕もルピカもいます。だから、大丈夫です」

 瀬乃も獅乃に触れる。獅乃が薄っすらと目を開けた。

「どうして、来た。危ないだろう」

 獅乃の声はかすれていた。

「大切だからです。わたしたちにとって、獅乃様は大切な人なんです」

 獅乃が伸ばした指先が、ルピカに触れようとして止まった。汚れた指先を見て、獅乃は自嘲する。

「ルピカ、ごめんな。おれは、お前にひどいことをした。守って、やれなかった」

「わたしが、悪かったのです」

 ルピカは獅乃の手を取り握りしめる。

「ルピカ、泣くなよ」

 疲れたようでいて、安心しきったような声を獅乃はあげた。

「獅乃様の代わりに泣いているんです!」

 ルピカは獅乃と瀬乃をまとめて抱きしめると、泣きながら祈った。

 どうか、大切な人を守れる強さをください。

 特別な、大きな力じゃなくていい。

 嵐の中でも手を差し伸べて、寄り添える強さを、わたしたちにください。

 ルピカを中心に、光があふれた。光は流れる川のように呪いの世界に広がっていく。赤い空も、黒い砂も光の水で流されていく。

 最後に残った呪いの木は、ゆっくりと塵となって消えていくところだった。

 もう頭たちはわめいていなかった。みな、一様に瞑目し、新しく流れてきた心地の良い風に耳を澄ませ、ようやく訪れた安寧に身をゆだねて消えていった。

 夢の世界は光に包まれた。三人は抱きあったまま、目を閉じ、耳を澄ませている。どこか遠くの方で、子どもたちが笑い合う声がしたのだ。それは懐かしい、笑い声だった。

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