第1話
7月中旬
外は大粒の雨が降っている。
梅雨の夕暮れは、夕焼け色ではない。灰色の絵の具に少しずつ黒を足していくように夜になる。ゆっくりと、だが確実に黒は全てを飲み込んでいく。
僕は傘をさし、靴の飛沫で裾が濡れるのも気にしないで、足早に家へ向かう。
全てが黒色になってしまったら、どうしても雨音が足音に感じてしまう。
誰かに追われているような気がしてしまう。
これは、僕の昔からの癖だ。
振り返っても何かがいるわけないのだが、日が暮れてしまうと、それを確信することはできない。
地面を打ちつける無数の雨の飛沫の中で、大きな飛沫がたっていたら——誰かが駆けている足跡だったら。
深く考える事を辞めた。
この季節になると記憶の奥底から死んだ魚が浮き上がるみたいに、ある事を思い出す。
——伊波ゆきちゃん行方不明事件
この事件と僕が雨音を足音のように感じてしまうのには関係がある。
だか、その理由について誰かに話したことはない。いや話せないという表現の方が正しい。
小学生の僕と2人の少年で交わした約束がある。
僕は、この記憶に関して、口を滑らせないよう慎重にかつ厳重に封をしている。
立ち止まり振り返った。
アスファルトに小さな飛沫が跳ねている。
そこには、誰もいない。
*
引っ越しは、午前中に終わった。
持ってきたのは、いくつかの夏服と実家暮らしで貯めた多くはない貯金だけだ。
だから、電車で移動をして、部屋に辿り着けば引っ越しは完了となる。
僕は部屋の中で大の字になりながら、目を閉じている。大きく深呼吸をした。畳の香りがする。
屋根に打ちつける雨音が軽快な音楽のようだ。蛙の声が主旋律を奏でていて、人や車の音は何もない。
嬉しくなって小さく笑った。
ヒステリックな母親の金切り音のような声も、それに諦めて無関心を貫く父親の気配も何もない。都内とは違う、何もないこの田舎が僕は好きだ。
あるのは夏の気配だけ、それが堪らなく嬉しかった。
築40年の1Kアパート、家賃2万円の僕の聖域だ。駅から徒歩1時間、最寄りのコンビニまで徒歩30分、バスやタクシーは当然無い。
その不便さを思い、また小さく笑う。嬉しさとは違う。この不便さに懐かしさを感じていた。
僕は、12年前までこの田舎で生活をしていた。中学に入学すると同時に東京へ移った。
だから、引っ越しというより、元の鞘に収まったという感覚の方が強かった。
閉じていた目を開け、体を起こす。雨はいつの間にか止んでいる。
スマホを見ると午後12時を少し過ぎていた。天気アプリによると、今日はこのまま雨は降らない予報だ。
コンビニに向かいがてら、田舎を散歩しようと思った。
12年前の記憶を懐かしむために。
水の張った田んぼは、雨のせいで水量が増え、用水路に水が流れ込んでいた。歩道から用水路を覗き込むと亀が鼻を出していて、人の気配を感じるとすぐにどこかへ逃げていく。そんな田舎の風景を楽しみながら歩いていると、じっとりと額に汗が垂れる。
雨は止んだが、空は重そうな灰色の雲に覆われ、風が無いからか停滞している。
日差しが無くて涼しいと考えていたが、蒸し風呂のような湿度の高い空気が、体感温度を上げていた。
足を止めていると空気が質量を持って、絡みついているような感覚になる。
マップアプリを開いた。コンビニまで後15分ほどかかる。
ふと辺りを見渡す。偶然タクシーが走っていないかと期待したが、車自体全く走っていない。
背の低い稲が植えられ水の張った田んぼがあるだけだ。その遠くに、茶色の平家が見える。だが、人の姿はない。
——こんなにも人の姿が無かったか?
そんな事を考えた。
僕は、一度、首を左右に振って辺りを見渡す。水の張った田んぼに背の低い稲が植えてあるだけで、やっぱり人の姿はない。
遠くに見える平家をじっくりと見た。家ならば誰かはいるだろう。だが、何かが動く気配はない。スマホのカメラアプリを起動して、その平家をズームした。
茶色の壁だと思っていた平家は、枯れた蔦に覆われているだけだ。あの家に人は住んでいないだろう。
あれだけ美しく、動的な記憶として保管されていた田舎が、とても無機質に見える。
人工物でできた冷たさのあるものでは無く、もっと陰湿な気配だ。
野良猫の装いは愛らしいのに、その体には虫が沸いているような気持ち悪さを感じるそれと、よく似ている。
僕は、すぐに歩き出した。できるだけあたりを見渡し、人の姿を探す。だんだんとその足取りは早くなり、気づいた時には駆け出していた。
「どうして人がいないんだ」という疑問が、頭の中に広がっていく。
湿度を持った空気が、体に纏わりついて走りにくい。
口の水分が無くなって行き、唾が飲み込みにくい。
「見つけた」
子供の声が聞こえて、僕は反射で振り返る。それと同時に足が止まった。僕の荒い息が、鼓膜を騒々しく揺らし、視界で声の正体を真ん中に捉える。
田んぼの畔から顔を出す男の子が、真っ赤なザリガニを掲げている。その少年に続いて、別の少年が畔からひょっこり顔を覗かせる。
すぐに幼い彼らが屈んでいたから、隠れて見えなかったのだとわかった。不気味に思えていた田舎の無機質さが、思い出通りの動きを持ち始める。
少年たちはザリガニ採りに熱中し、よく見れば田んぼの様子を伺いに来た軽トラが畦道を走っている。それに遠くから熱中症の注意を呼びかける防災無線も聞こえてきた。
額に流れる汗を腕で拭い、改めてコンビニを目指す。その道中、僕は僕自身の嫌な癖に苛立っていた。
僕は、いないはずの存在に怯えている。
コンビニには到着した。もちろん、問題なく。
一瞬だけ感じた「人がいない」という不安も、今はもう無い。
早くこの蒸し暑い空気からクーラーで整えられた店内へ逃げ込みたい。脱水症状に近い渇きへ、冷たい飲み物を流し込みたい。そう思っていたはずなのに、店先で足が止まっている。
一人の少女と目が合っていた。その少女は、季節に合わない長袖を着て、小さなテディベアを抱き、こちらに微笑んでいる。少女は何も話さない。
僕が見つめている少女に実態はない。
その少女は店先に貼られている一枚の日に焼けた写真だからだ。
——伊波ゆきちゃんを探しています。
日に焼けて、色の褪せたポスターの中心の写真に映る女の子が〈伊波ゆきちゃん〉だ。
2011年7月18日 午後1時頃
小学校の終業式が終わった後で、家に帰らず行方不明になっています。
身長は145センチの細身、黒の長髪、赤いランドセルを背負っています。
何か情報を知っている方は、こちらまでご連絡ください。
ポスターには、12年前から成長の止まった女の子の情報が羅列している。
この行方不明事件は、当時ニュースにも取り上げられ、地元猟友会、警察を含めた100人体制での捜索が行われた。しかし、伊波ゆきは見つからなかった。
夏の事件という事も相まって「神隠し事件」とワイドショーが取り上げていたのを覚えている。
汗を拭う。これは、夏の暑さのせいだ、多分。
僕は、伊波ゆきちゃんを知っている——ポスター以上の多くを知っている。
どんな風に笑うのか。何が好きなのか。どんな性格なのか。
語尾を伸ばす癖があることも、平気で虫に触れる性格なことも、凛とした鈴の音のような声のことも——
僕は、伊波ゆきのクラスメイトだった。
洪水のように流れ込んでくる情報に、思わず手で口元を覆った。
僕にとって、これは全部、12年間秘密にし続けてきた話。
この行方不明者ポスターには、重要な事が書かれていない。
重要な事とは、伊波ゆきちゃんが行方不明になった原因だ。
誰にも気づかれないように、悟られないように、僕は常に慎重に動いてきた。
きっとこれからも僕は、何も語らない。
彼女の行方不明は、未解決のまま——僕らはそれを望んでいる。
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