第2話
コンビニで伊波ゆきのポスターを見てから、何かが変わっている。
それは感情といった曖昧な物ではない。もっと僕に対して直接的で、実態を持った物だ。ただ、これを表現するのには、あまりにも正体がわからない。
だから「何かが変わっている」と言うしかない。
引っ越してから1週間が経った。木造アパートの2階、畳が敷かれた8畳の部屋で目を覚ます。
寝汗を吸った半袖を脱ぎ、シャワーを浴びている。
風呂場は、1畳ほどしかない空間だ。頭からシャワーを浴びていると、ふと違和感を覚えた。
眉間に人差し指を近づけるとむずむずする感覚に近い違和感。
すぐに振り返る。だが、そこには壁しかない。
シャワーを浴びている数分間、その違和感に何度も襲われた。
背後からであったり、頭上からであったり、時には足元の排水溝であったり……
風呂場に限った話ではない。
生活をしている間、何度もその違和感が僕に付きまとう。
部屋で寝転んでいれば、窓の外から。
食事をしていれば、よく閉めなかったタンスの隙間から。
トイレをしていれば、頭上から。
昼寝をしていれば、天井からそれは襲いかかる。
違和感の正体を探してみても、何かがあったり、起こったりしているわけではない。
恐怖心はさほど感じない。どちらかというと違和感のせいで、生活の中にノイズが入る不便さの方が強く感じている。
全て、部屋にいるときに襲われる違和感だ。だから、自然と部屋にいる時間が減っていった。
梅雨は完全に明けている。
昼間は刺すような日差しが、肌を焼いていき、汗が滝のように流れ出る。
最初こそ、懐かしさの追憶のために、神社や小学校、昔住んでいた家など沢山の場所へ訪れた。でも、抗いようのない暑さにやられて、今ではどうにか1日の時間を消費するためだけに毎日を過ごしている。
今日も、午後から同じような日を過ごし、日が暮れかけてから家に帰る。
その途中で、伊波ゆきのポスターがあるコンビニに立ち寄った。
最初こそ店先で立ち止まってしまったが、それは12年間口を噤んでいた事柄が急に現れたからであって、より厳重に記憶へ封をすれば、なんて事はない。
12年間誰にも話してこなかったのだから、これからも口を滑らすことなんてない。
店内には、作業着を着たガタイの良い男性がレジで会計をしている。店員は1人しか見当たらない。男性と店員の間にはカゴいっぱいに商品が詰め込まれていた。
それを見て僕は、レジが空くまで雑誌コーナーで暇を潰す事にした。
5分ほど立った頃、店員の崩れた礼の言葉に混ざって、声が聞こえてきた。
「あれ? あーちゃん?」
あーちゃんという単語が、僕を呼んでいると気づくのに時間がかかった。
ふた呼吸ほど置いて、雑誌に向けていた視線を声の主へ向ける。
先ほどレジに並んでいたガタイの良い男性だ。すぐにガタイの良さは脂肪では無く、筋肉であると気づいた。捲られている作業着から、日焼けした太い前腕が覗いている。
「あー……えっと……」
記憶の中で、僕を「あーちゃん」と呼ぶ人物は、小学生の2人しかいない。
1人は、小柄な体と人懐っこい笑顔が特徴的な〈
もう1人は、肉付きのよい大きな体で食いしん坊だった〈
2人とも僕の親友だ。けれど、目の前の男性と2人は全く重なり合わない。
僕の様子に気づいた男性は、大きく笑う。
「俺だよ。大和! 市谷大和!」
また男性と親友の一人である小学生の彼を重ね合わせる。全く重なり合わない容姿だが、大きな二重の目がぴったり重なった。
「大和! 大和じゃん! なんでここにいるの!」
「こっちのセリフだよ! あーちゃんこそ、何してるの?」
僕らはコンビニの店内にも関わらず、驚くくらいはしゃいでしまった。
12年という長い時間は、互いを認識した時点ですぐに埋まる。
しばらくはしゃいだ後、店員の冷めた視線に気づいて、足早に退店した。
コンビニの裏に置いてある喫煙所で、改めて再会を喜ぶ。大和が喫煙者になっている姿を見て、意味もなく感心してしまった。
「あーちゃんが、帰ってきてるなんて知らなかったよ。いつ帰ってきたの?」
「1週間くらい前。ちょっと疲れちゃって、田舎で休もうかなって」
僕は、大和達と過ごした時間が忘れられなくて、なんて恥ずかしくて言えなかった。
「休むのは大切だよ。今でもあーちゃんの話、良平とするよ」
「良平もこっちにいるんだ!」
嬉しかった。とにかく嬉しかった。まだ大和と良平が変わらない関係を続けていることも、今だに僕の話題を出してくれることも、とにかく全てが嬉しくて堪らなかった。
「最近、良平とも会えていないし、今度3人で飲みに行こうよ! 連絡先交換しておこう!」
僕と大和はスマホを突き合わせた。大和のスマホに映ったQRコードを僕が読み取ろうとするが、大和のスマホがブレていて上手く読み取れない。
「スマホちゃんと持ってよ」
冗談まじりに言いながら、大和の方を見た。
大和の目は、僕ではなく、その後ろを見つめている。
僕で隠れた何かを覗くように、体を傾け、背後を見ている。
「どうかした?」
大和と同じ方向へ肩越しに振り返った。けれど、そこには何も無い。沈みかけの夕暮れが、田舎の影を長く伸ばしている。見渡す限りの田んぼに、風が吹いた。まだ背の低い稲が、撫でられるように揺れる。
大和に向き直す。大和は、眉間に皺を寄せながら、口元を歪めていた。
「大丈夫?」
歪んでいた表情が、はっとしたように柔らかい笑顔に変わる。僕には、無理矢理作り替えたように映った。
「うん、ごめんね」
改めて連絡先を交換する。僕らの間に、理由のない気まずさが訪れた。
どちらも何も話さない時間が続く。間を埋めるように、大和はまた煙草に火をつける。最初に口へ付けただけで、その後は右手の中指と人差し指に挟まれているだけだ。
「俺の後ろに誰かいる?」
大和が小さく言った。視線は僕の目に向いている。
「誰もいないよ」
僕は、大きな大和の体からズレて背後を確認した。
大和の背後には誰もいない。建物すら立っていない。どこまでも田んぼが広がっていて、時折、イナゴが飛び跳ねる。その遠い先に山があるだけだ。
大和は、ひと呼吸ほど置いてから口を開いた。
「最近、誰かに見られている気がするんだよ。視線って言うのかな。上手く言えないんだけれど、とにかく見られている気がするんだよ」
僕の口から疑問符が漏れた。
日が沈んだ今は、日中のような暑さは感じない。時折吹く風に、心地よさすら感じる。さっきまで聞こえていた夏の虫の声が、低い異音でかき消される。その異音が、早くなっていく僕の鼓動と気づくのに時間はかからなかった。
鼓動が早くなった原因は、僕が自宅で感じていた違和感を「視線」と表現するのが、あまりにも当てはまっていたからだ。
僕は見られていた。
「もしかして、眉間に指を当てられてる感じ?」
大和が驚いたかのように目を大きく見開いた。
「あーちゃんも感じてるの?」
「うん、今は感じないけれど。 家にいると、窓の外とか背後から感じる」
僕らの間に風が吹いた。いつの間にか大和の右手にあった煙草は消えていて、長い灰が地面に落ちている。
「ゆきちゃんってまだ見つかっていなんだよね?」
僕は、そう言った。脈絡のない話題だ。
けれど、感じている視線に対する恐怖心と伊波ゆきちゃん行方不明事件に対する恐怖心は、同じ種類の物だ。だから、僕の中で視線と伊波ゆきは繋がる。
「うん、まだだね」
僕らだけが知っている「伊波ゆきについて」の話がある。
口を噤み、滑らせないよう、弛まないよう、慎重に厳重に封をしている–––2011年7月18日からこの瞬間までの12年間、秘密にし続けていた話だ。
伊波ゆきは、この世に存在しない〈何か〉に連れ去られてしまった。
笠野旭、市谷大和、押辺良平の3人が呼んだ何かのせいで——
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