第3話 足りない樹蔭

「私、別に生きたいとか思ってないよ」

そんな言葉を、夏に捨てた。

ただひたすらに雲一つない空を見つめて。


ーーー瑞希ーーー


『時間の矢が一方方向だとしたら、この想いも叶わないものなのだろうか。』


 韻愛、今なお通ずること能わず。


 私が見た景色は確実に存在していて、視界に入ったこと自体に意味があるのだろう。しかし、この想いは届かないだろう。


 私にとって由美子という存在は、非常に脆く、武人な子であった。少なくとも、由美子はどこか透明な壁を張り巡らせていて、接触を許さない。だからこそ、純粋たるこの想いも風に流されて消える。シャトルランでも走らされているのだろうか。決意という心も、どこか遠くへ私を置いていってしまうのだ。


 昼下がりの教室。私は「不安」という不粋な感情を殺して、由美子の机の前に立っていた。美しいガラス玉のような目に見惚れて。


「由美子ー。この前のノート見せて?」


「自分でやりなよ。何回目なの……。瑞希が宿題を終わらせるなんて、今まで一度も見たことがないよ。」


「一生のお願いだから!」


 私は苦笑しながら要求した。


「わかった。今度、これとこれ、奢ってね。」


「わかった。仕方ないから奢ってあげる。ノート助かる!ありがとう。」


 私は、由美子に対して、ノートを口実に時間を与えてもらえた気がした。数センチ先にいる由美子には届きそうで届かないのだろう。だから、友達の線を超えない程度、ただひたすら要求するしかない。友達としての要求を。


 いつからだろう。由美子という絶版本を手に入れるかの如く、由美子を追いかけて。追いかけて。私の懐に入れてしまおうと想うようになったのは。


 春が私の頬を撫でる。誰かが言っていたように、学生は長いようで短い。人生もまた、長いようで短いものだと。丁寧な暮らし、丁寧な言葉、社会との適応。全てが途方もなく繋がっていて、どこまで行っても点と点を結ぶんだ。けれど、あの少女に出逢ってから、ぼろぼろの歯車が噛み合って回り出したようだった。


 私は、小学生時代、これまでも両親にささげてきた。それで、小三くらいから塾に通った。課題、授業、模試、面談――その繰り返し。好きなものと言えば、人気の女性アイドルグループ。結構な回数、同じインタビュービデオを見た。繰り返し。それが唯一の瞬間だった。


 嫌いなものは山ほどあって、やりたくないことだけが増えていく毎日。期待されること。努力することが苦痛でしかなかった。幸福論者を憎むほどに。私はやれることはやった。結果として第一志望には落ちてしまったけれど、制服の裾上げをしに行った。わたしの時間を返してほしい。褥瘡のようにお決まりルートに当てはめられている気がして、歯切れが悪かった。


 入試に落ちてからは姉と比較され続け、優秀な姉と劣等生の私とで大いに態度が変わっていった。その分、ヤンキーだと思われてるみたいだった。好き勝手にやらせてほしいけれど、上からの力というものに無力な私は抗えない。今までも。これからも。入試も終わった。そして季節は終わりを迎えて、また新しい春がやってくる。


 私は由美子と出会った。


 きっとこれは、似たようなものだったのだから。私たちは出会えたのだと思う。矛盾していても許されたい。内省するたびに、少しずつ乖離していった。ただひたすら暗闇の中を彷徨い続ける。何のために生きて、何がしたいのか。この先もずっと同じことを繰り返すだけの日々なのだろうかと、ジレンマ的な思考巡りをしてしまう。


 その時もそうだ。私は制服の採寸で、入学予定の学校へ向かった。やらないことばかりを決めて。


「ねぇ。そこの人。いきなりで悪いのだけれど、この列って〇〇コースの採寸であってる?」


 いきなり話しかけられて驚いたのだが、その子はとても綺麗で、見惚れてしまった。ガラス玉のように反射する瞳も。その長い髪も。少し中性的な顔も。なぜかチョコレートのような甘い匂いがした。息を呑むほどに、きっと見惚れてしまったのだと思う。


「うん。多分ここで合ってるよ。」


 視線を合わせるのに精一杯で、多分こう言ったのだと思う。血液中のヘモグロビンが波打っているのか、神経が敏感になっているのかわからないが、身震いした。


「ありがとう。」


 そう言って由美子は、私の後ろについた。それだけなはずなのに。いつもなら適当に流す言葉、空気も、私の中でそれは不健康に感じた。これきりの会話だけど、記憶力が悪い私でも思い出せる、そんな体験だった。


 私はノートを借りた後、シャー芯が詰まってるペンで、無理やり宿題の所を写し続けた。


 宿題というのは、きっと理不尽を押し殺すために作った産物なのは分かっているが、私にとってそれは不思議なものだった。結局、授業が始まるまでに半分しか写せなかったので、今日の宿題は終わらなかった。授業で大恥かくと成績に響くから、本当は宿題をやらなきゃいけないけれど。


 私はそれなりに可愛い方だったし、クラス内や学校の先生に媚びを売るような仕事は得意だった。そんな私は、自信がないからなのもあると思う。一番に社会を理解しているような感覚に陥っていた。自信はないけど、プライドは無駄に高い。


 思春期は面白いものではない。私は由美子ばかり目で追っかけているけど、それはきっと、友達ではないのだ。


 アルコールを飲んだことならある。母親が飲んでいる物を、子供心に飲んでしまったことくらい。そんな単純な子供心ではないと思う。抑えきれない。一歩引いているはずなのに、死ぬことよりも先に選ぶような気がして。


 困難なものに燃える人。手に入れようと必死にもがく人。私もそうなりたかった。けれど、これは許されないことなんだし、殺すしかないのだ。手段はたった一つ。矛盾した行動をとってしまうのも、本当はいけないことをしてしまっているのだろう。


ーーー由美子ーーー


 私が死ぬまでにやりたいことは、たくさんある。

• 川に行く

• アニメを観る

• 映画を観る

• 資格を取る

• ラーメン屋に一人で行く

• 髪を染める

• 行ったことのない場所に行く

• 「本当に生きていた」と思うこと

• 絵を描く

• 何もしない日を一日過ごしてみる

• 誰かと何かをつくる

• 昔の自分へ手紙を書く

• 美術館に行く

• 道の駅に行く

• 夜の海に行く

• 今読んでる小説を読み終える

• チョコレートを食べる


 こんなにあるんだ。あるはずなのに、私はこのカフェからの景色を観て、コーヒーを飲む以外できないのだ。それがかっこいいことでもないのに、「恵まれているよ」と言われたところで、認めることなんてできないのだろう。


 瑞希との体育の授業は不思議なものだった。けれど、それもただのゆらぎでしかないのだろうし、私にとってはどうでもいいことのように思えた。


 此処にいることに価値を向けることが、非常に怖い。


 私は籠の中の鳥で、誰も助けに来ない。きっとそれが「孤高」なのだと思った。


 夏休みというやつは、カルテに書けない無駄なもので、暇つぶしをしている日々をちっぽけに感じたのだった。このまま人生を進んだところで、決まりきっているのだろう。


 だから多面的に見られることすら、魅力にも思えない。興味を持てないのかもしれない。


 夏休みは、学生にとって喜ばしいイベントのようなものだと思ってたけれど、私は違った。夏休みは何かしないといけない気がして、余計に無気力になる。私が確かに「いる」ことすら、忘れてしまうのだ。


 出された宿題は、やれても、何か足りない。私という存在=夏休みの宿題が終わらないまま、時が過ぎていく感覚に陥る。いくらか負けてくれたらいいのに、私は少しも許すことができないのだろう。


 汗が滲んで匂いがつくのが嫌だし、夏って本当に最低だ。根本的に神がいたのなら、凡ミスでしょ。


 私は結局、何も変わらない。いや、変われなかった。本当のことに気がついているはずだけれど、わざと見落として、知らないふりをしていたのだ。


 コーヒーの音。川の音。マスターの影。私という存在。周りとの関係。


 どれも図々しくて、億劫だ。感想を述べろと言われたら、「最悪だ」としか答えられない。


 睡眠不足も、全部夏のせいにしてしまいたい。


 確かに触れているはずなのに、感触を捉えられない。時間だけが過ぎ去る日々に衰弱していった。言葉が喉に、死んだ魚の骨のように刺さって苦しい。蝉も死んでいく。草木も死んでいく。私も死んでいく。なのに、それだけなのに、なぜだか苦悶してしまうのだ。


 


 頑なに曲げられないストローを吸い続ける時間は、本当に曲げられないのか。血管が壊れて、脳卒中とかで死ぬのではないか。


 家族とは何だろう。関係とは何だろう。愛情とは? 友情とは何だ。


 私の中で憎悪が渦になって、再起不能になる。


 私は今、幸せだよね。きっとそうだ。そうでなければならない。蔑むことばかりではなく、感謝しなければ。


 


 家に帰ると、パートの母が皺を寄せて何だか言っていた。私が〇〇だとか、配慮に欠けるとか、思いやりを持ちなさいとか。


 また始まった……。そういうのは、娘としても苦手だった。感情論で語られてしまうと、私も面倒に感じてしまう。


 論理で突っ走るタクシーと、感情で突っ走るトラックが激突して、事故を起こすのだ。


 いつも私が謝るしかない。


 


「成績どうなの? 模試の成績、この前下がってたでしょ。またあそこの喫茶店行ってサボってたの? そういうところがいけないのよ。」


「ごめんなさい。」


「それだけ? お父さんとお母さん、由美子にたくさんお金使ってるんだから、ちゃんとしなさい。隣の家の〇〇さんは、校内でも成績トップらしいよ。あなたも少しは見習ったらどうなの?」


 さらに顔に皺を作って、母は野犬かの如く吠え続けた。


 こういうのは慣れているのだが、こんなものに囚われる人間ってつまらない。私も頑張っているのに、否定され続けて、その分期待されて。


 私は母の玩具ではないのに。


 憎悪だけが私の中で波打って、刑罰を受け続けなきゃならない人生に絶望した。


 夏という疑問に、誰が答えてくれるのだろう。


 風の揺らぎも、素粒子も、この銀河も、光も。どれが本物なのか分からない。


 きっと孤高にもなれないのならば、私はなぜ今を生きるのか。生きてしまっているのか。


 


 生命停止ボタンがあれば、生命を停止させるボタンを押してしまいたいくらいだ。


 ゲージが溜まらないゼロエネルギーを孕んだ空気を吸うことを強制された社会。それがとても醜い。


 囚われ続けるこの空間。揺らぎが燃えて消えてしまえば、私は澄んだ空気を吸えるかもしれない。


 癇癪を起こした子供のように、私は刹那的な感情を叫び声にしてあげたり、泣いたり、手足をばたばた動かしたり、床を転がったり、物を投げたり、足を踏み鳴らしたり。心のどこかで再生し、表現し続けるしかなかった。


 


 そして、私は――


 明日が来ることに何度も試されている日々であるのに。


 アスファルトに咲いた花に恋焦がれるように。


 未曽有の恐怖を抱いて、偽りの神に懇願し続けるのであった。

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