満ち足りた家
kou
第1話 歪んだ祈り
古い洋館があった。
蔦の絡まる洋館は、まるでおとぎ話に出てくる魔女の家のようだ。美しくもどこか翳りのある静寂に包まれていた。
その館に、一人の女性が住んでいる。
艶やかな黒髪をゆるくまとめ、デザイナーらしい洗練されたモノトーンの服に身を包んだ彼女は、黒川玲という。
フリーのWEBデザイナーだ。
そのカリスマ性と憂いを帯びた瞳で、常に仲間たちの中心にいた。
しかし今、彼女は一人だった。
その館にいるのは彼女だけ。
ほんの数十分前までは、彼女の他に3人の人間がいた。
デリバリーの料理が届き、3人でそれを囲んでいたのだ。
ワインの酔いに頬を染めて、玲は夢の中に居た。
それは、温かく、光に満ちた、幸福な夢。
ダイニングテーブルの上は、まるで小さな食の祭典のようだった。
中央に鎮座しているのは、本格的な石窯ピッツァ。
香ばしく焼かれた生地の上で、とろりとしたモッツァレラチーズが、バジルの鮮やかな緑と完熟トマトの赤を抱きしめている。
その隣には、シェアしやすいようにカットされたローストチキンの盛り合わせ。皮はパリッと飴色に輝き、ナイフを入れる前からハーブの豊かな香りがふわりと立ち上る。
箸休め、というには少し贅沢な、生ハムと数種類のチーズのプラッターもある。薄くスライスされたプロシュートの繊細な塩気と、カマンベールやゴルゴンゾーラの濃厚な風味が、これから注がれるであろうワインを待ちわびているかのようだ。脇に添えられたオリーブとドライフィグが、大人のパーティーの雰囲気を一層引き立てている。
それらの主役たちを囲むように、シャキシャキとした葉野菜にナッツとクルトンがアクセントを加えたシーザーサラダのボウルも置かれている。
湯気を立てる料理たちの熱気と、キャンドルのいくつもの柔らかな炎が、テーブルの上で揺らめき、これから始まる楽しい宴を祝福していた。
その柔らかな光が、仲間たちの楽しげな表情を優しく照らし出していた。
「いや、だからさ、あのクライアントの修正指示が意味不明なんだって!」
口を尖らせて愚痴をこぼすのは、IT企業の営業マン、堂島健斗だ。
彼はグラスに残っていた赤ワインをぐいと飲み干し、大げさに溜息をつく。その子供っぽい仕草に、向かいに座っていた千野夏希が快活な笑い声を上げた。
「また始まった、健斗の愚痴タイム。でも、お疲れ様。はい、これでも食べて元気出して」
スポーツジムのインストラクターである夏希は、そう言ってローストチキンの大きな塊を健斗の皿に取ってやる。彼女の屈託のない笑顔は、まるで太陽のようにその場を明るくした。
すると相田潤は、穏やかな声で二人をなだめる。
「健斗も大変だな。でも、たまにはそういう理不尽なこともあるよ」
潤は図書館の司書で、いつも一歩引いた場所から皆を見守っている。その優しい眼差しは、今、玲へと向けられていた。
「玲こそ、最近忙しそうだったけど、大丈夫か? 顔色、少し良くなったみたいだけど」
「うん、ありがとう、潤。もう平気」
玲は微笑んで答える。
仲間たちの声が、笑い声が、この広い洋館の空間を満たしていく。それが、何よりも心地よかった。玲は親代わりの祖母が長期の入院となってから、ずっとこの館を覆っていた、重く冷たい沈黙の氷が、彼らの体温でじんわりと溶けていくようだった。
「それにしても、やっぱり玲の家は最高ね。天井も高いし、落ち着くなあ」
夏希がうっとりと天井を見上げる。その視線の先には、年代物のシャンデリアが静かな光を放っている。
「そうだな。俺もこの家、好きなんだよ。なんか、守られてるって感じがする」
健斗が得意げに言うと、潤がくすりと笑った。
「お前の家じゃないだろ。でも、分かるよ。この家には、何か特別な空気がある気がする」
潤は玲に向かって、穏やかに語りかける。
「ふふ、ありがとう。みんながそう言ってくれると、今回も家でパーティーをしたかいがあるわ」
玲は、心の底から満ち足りた気持ちでワイングラスを傾けた。
みんながいる。
この場所に、私のそばに。
この時間が、永遠に続けばいいのに。
そう、強く、強く願った。
窓の外では、月が雲に隠れ、庭の木々が風にざわめいている。
しかし、その音はもう、孤独を囁く不吉な音には聞こえなかった。それはまるで、彼女の願いに相槌を打つ、優しいハミングのようだった。
この幸福な夢が、いつまでも覚めませんように。
玲は、キャンドルの炎に祈りを捧げた。
炎は、彼女の願いに応えるかのように、一際大きく、静かに揺らめいた。
現実では決して手に入らないものを、夢なら叶えることができる。
好きなことを仕事にし、それを仲間が支えてくれる。そんな誰もが望む夢のような世界だ。
しかし、その世界は彼女の目の前で脆くも崩れ去っていた。
親しき友人たちとのパーティーの喧騒が去り、一人きりで大理石の玄関ホールに佇むとき、その静寂は重さを増し、彼女の心を蝕んだ。
玲は、幼い頃に事故で両親を亡くしていた。
以来、この広すぎる洋館で、彼女の世界は祖母、高校以来の交友関係が続く潤や夏希、健斗といった仲間たちとの絆だけで、かろうじて形を保っているに過ぎなかった。
その脆い均衡が崩れるのは、一瞬だった。
鳴り止まないクライアントからのクレーム電話、心血を注いだデザインの理不尽なリテイク。
積み重なるストレスが彼女の心を削り、磨き上げられたガラス窓に走る亀裂のように、彼女の世界は音を立てて崩れ始めた。追い打ちをかけるように、唯一の肉親だった祖母が、眠るように息を引き取った。
玲は、この広い洋館で本当の意味で一人っきりになった。
ステンドグラスから差し込む光も色を失い、先祖代々の洋館に一人残された玲は、ついに底のない井戸に落ちていくような、絶対的な孤独に突き落とされた。
涙も枯れ果てた夜、玲は暖炉の前で膝を抱えていた。
その脳裏に、ロッキングチェアに揺られながら昔話を聞かせてくれた祖母の声が蘇る。
「この土地にはね、玲。力が宿っているんだよ。私たち黒川の一族を、ずっと昔から見守ってくれている、大きな存在がね」
それは、他愛のない話。
子供の頃は退屈な昔話としか思っていなかったその言葉が、今や暗闇の中で見つけた唯一の灯火のように、彼女の心を照らした。
何かに導かれるように、玲は月明かりが差し込む裏庭へと向かった。手入れの行き届かなくなった薔薇のアーチをくぐり、湿った土の匂いが濃密に立ち込める中、祖母が「力の源」だと指し示した古い樫の木の根元を、その細い指で夢中で掘り返す。
やがて指先に、ひやりと硬い感触が当たった。それは、長い年月を経て黒曜石のように滑らかになった、卵ほどの大きさの石だった。
玲はその石を両手で包み込む。
そして、祈った。
それはもはや祈りというより、魂の叫びだった。
「もう、一人にしないで。寂しいのは、嫌……。潤も、夏希、健斗も、みんな、私の大切な人たち。どうか、ずっと、永遠に一緒にいられますように」
その純粋で、しかしあまりに歪んだ願いは、涙の雫と共に乾いた土へと染み渡り、何百年も眠っていた土地の奥深くへと届いていった。
土地は、応えた。
翌朝、窓の外で、枯れかけていた庭の薔薇が、まるで真夏のように瑞々しい深紅の花を咲かせていた。
二階の廊下で絶えずきしんでいた床の音が消え、バスルームの蛇口から漏れていた水滴がぴたりと止まる。
洋館全体が、まるで彼女の願いに応えるように、健やかになっていく。
玲は、土地が、この家が、自分を受け入れ、力を与えてくれているのだと確信した。空っぽだった彼女の心は、得体の知れない全能感で急速に満たされていく。
しかし、その内面はもはや以前の彼女ではなかった。
朝、化粧台の前に座った彼女は、鏡に映る自分の瞳が、底なしの湖のように静かで、昏い光を宿していることに気づかない。
いつもより肌の艶が良いことだけを喜び、うっすらと口紅を引く。
仲間たちと話すときも、その言葉は全てを包み込むように優しいのに、どこか「自分たちだけの世界」へと誘うような、排他的な響きを帯び始めていた。
そして、玲は、軽やかな口調で仲間たちをパーティーに誘った。
暖炉には暖かな火が灯り、長いダイニングテーブルには豪勢な料理が並ぶ。完璧な舞台を整えた洋館の中央で、玲はスマートフォンを手に取った。
猫のおどけたスタンプを添えて、彼女はメッセージを送信する。
それは次のパーティーの開催を伝えるもの。
その陶器のように白い肌に、長年の孤独からついに解放されるという至福の喜びと、愛する者たちを完全な形で手に入れられるという、狂信的な使命感に満ちた穏やかな笑みが浮かんでいた。
彼女の感情に呼応するように、ダイニングホールの壁紙の下で、古い漆喰が、ゆっくりと脈打つ。
静かに。
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