第6話 彼女はもうあの時の彼女ではなかった。

僕はどこで間違ってしまったのだろうか。

闇の中に沈んでいく僕と曖昧な世界。


壊せるのか、狂えるのか。

 僕はいつの間にか、大切なものを失ってしまっていた。

 形にしてはならない感情を、僕は抱き始めていた。

 その手にしているものは、僕の真実であるのだろうか。

 彼女と出会ったことが間違いだったのだろうか。

 ──僕にはそれを考えることすら、許されていなかった。


 彼女が写真に写っていたことの、何がおかしいのか。

 それは、そもそもその写真に彼女が写っているはずがないという事実だ。

 たくさん考えてしまうことがあるが、今日はこれくらいにしておこう。

 僕の部屋は恐ろしい様相を呈していて、それと同時に、僕自身も醜い姿へと変わり果てていた。


 ──彼女の家に、久しぶりに行こう。

 そう思った僕は、すぐに彼女の扉をノックしていた。


「なんでしょうか?」


 彼女が変わり果てた姿で、そこに立っていた。

 綺麗な服を着て、髪も整えられている。裸足ではなく、靴下まで履いていた。

 僕はその状況を理解できなかった。

 彼女も驚いた様子で、まるで僕のことを初めて見るような反応をしていた。


「どちら様でしょう?」


「僕だよ。○○だよ」


「……全く知らないし、誰だかわかりません」


 彼女は、僕のことを完全に拒絶した。


 唯一の光だった彼女に忘れられている──

 それは、沸かしたお湯を放置して水分が全て蒸発してしまったように、

 僕の口から全ての感情が消え失せ、ただ乾くだけの瞬間だった。


 この渇きを、どうにかしたい。

 咄嗟に彼女の手を握って、僕は涙を浮かべた。


 彼女は本当に、嫌悪していた。僕のことを。


 彼女に誘われて僕はこうなったのに、彼女にまで裏切られるとは。

 ──約束と違うなぁ。


 僕はいつの間にか、取り返しのつかない感情を抱くようになっていた。

 僕にとって「うまくやる」というのは礼儀ではなく、計画性のことだ。

 だから彼女が僕を拒絶した瞬間から、

 「彼女をどう殺すのか」「彼女を社会から守るために」──

 そんな独自の理論を開発し、気づけば計画を練り始めていた。


 数日が経つ頃には、僕はもう揺らがなくなっていた。

 やめる、のではない。

 「人としての僕」をやめるということだった。


 体が重く、耳鳴りがするのも、全部彼女のせいだ。

 僕は悪くない。


 世間では、人を殺すことを「かわいそう」「ありえない」と言う。

 だから僕は諦めたんだ。

 普通に生きられない僕が、選択肢を手放すことを。


 僕の中の嫌悪は増幅していった。

 彼女との思い出も、選択も、何もかもがどうでもよくなった。


 反芻するのだ。

 あの声。拒絶。あの気持ち悪い笑い声。

 僕に近づいたこと、そして離れたことを、後悔させなくては。



「おはよう」


「あなた……だから誰ですか?」


「僕ですよ」


「しつこいなら、通報します」


「できるものなら」


「いいんですね?」


「っっ……何するんですか?」


「なんでもありません。少し気を失うでしょうけど」



 汗が滝のように流れた。毒々しい、不気味な汗だった。

 そのときの僕の目は、きっと怪物そのものだったのだろう。


 僕は彼女を家に監禁した。

 重苦しい空気の中で、彼女の“色”を探していた。


 気絶している間に、僕は彼女の服を脱がし、元の服に着替えさせた。


「……なにをしてるの?」


「あなたは私でしょ? 虚像を見てるのは、あなたでしょ」


「本当にやめて!!」


 虚像か現実か、もうわからない。

 彼女の声が二重に響いて、僕の記録が書き換えられていく。


 僕を導き、妬み、苦しませ、惹かせ、そして壊した。

 ──彼女がそれを仕向けたのではないかとすら思った。


 彼女は、笑っていた。


 だから僕は信じた。

 拒絶ではない。

 都合の良いように、僕は解釈していた。


 ペット用のゲージを購入して、そこに彼女を入れた。

 時間が経つにつれ、彼女は諦め、目から“色”を失っていった。


──美しい。


 彼女は歯ぎしりをしながら、また僕に笑いかける。

 ここが僕の天国なのかもしれない。


「なぜ、拒絶したんだ」


 低い声でそう問うと、彼女は答えた。


「君は虚像と現実がわからなくなっていってて、私にとってはそれが面白かった。でも……少し都合が悪くなった。少し、嫌悪してしまってね」


 ──その瞬間、腹が立った。

 彼女の頬を殴った。

 すると、彼女は歯をむき出して僕に噛みついた。


 落ち着く──

 わけがわからない。

 恨み、憎しみ、嫌悪があるはずなのに、近くにいると惹かれてしまう。


 彼女は明らかに人間ではなかった。

 僕もまた、人間ではなかったのかもしれない。



 数日が経った。

 ニュースになっていない。

 彼女の交友関係は? 親は?

 なぜ誰も騒がない?


 僕は、犯した罪を他人のせいにし、自分の存在を現実から抹消しようとしていた。


 スマートフォンの写真を漁っても、彼女の写真はどれも不自然だった。

 自撮りばかりで、他者の影がどこにもない。

 年頃の女の子が、こんなにも孤独なわけがない。


 ──だから、僕が寄り添おう。

 そう思ってしまった。


 部屋に積もる塵、苦しげな彼女の呼吸音。

 それらが訴えかけてくる。


 「僕が必要だ」と。



 数週間が経過しても、世間は静かだった。

 けれど、彼女の視線が、日に日に僕を追い詰める。


 触れようとすれば拒絶され、

 「おかしい人だ」と笑われた。


「あなたなんか、この世界に必要ないのよ」


 高笑いと共に、そう言い放った。


 ──許せない。

 どす黒い感情が、体内で蠢き始めた。


 これは僕のせいではない。


 ただそれだけを、繰り返し思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る