第5話 君のための病室
僕はいま、どこにいるのか──。
大学入学前の僕なら、お世話になるなんて想像もしていなかった場所にいる。
精神科の待合室。母に連れられて。
「○○さん、お入りください」
そう呼ばれて、僕は背筋を伸ばした。泥まみれの足で、清潔な空間へと踏み込む。
おかしい。何かがおかしい。でもそれを言語化できるだけの自分が、もうどこにもいない。
「眠れていますか? 食欲は?」
医師の質問に、僕は曖昧に頷くだけだった。
少しの沈黙のあと、診断名が口にされた。薬が処方された。
──僕は、病気らしい。
意識していないと、彼女の声が聞こえる。
誰かに見られている気がする。
それでも、僕は彼女に会いたい。
裸足で外を歩くのは、清々しい。
街の人々が振り返る。僕のどこが異常なんだろう?
彼女と僕は、もう完全に同じ生き物だった。
あの耐えがたい嫌悪感さえ、今では僕の体に染みついている。
思考が書き換えられて、新しいプログラムで動いているような感覚。
家に帰ると、あの天才的な「穴」から、彼女が覗いていた。
吐き気と、満たされる感覚が同時に押し寄せてくる。
だが、不思議なことが起き始めた。
僕が開けた覚えのない穴が、日ごとに増えていた。
一日に十個ずつ、小さな穴が壁に増えていく。
ガムテープを貼って塞いでも、朝には剥がされている。
恐ろしい。でも、きっと彼女がやっている。そう思って、確認しに行った。
「開けてるわけないじゃない。デンパは遮断してるのヨ」
彼女は首をぎしぎしと鳴らしながら、笑っていた。
扉を開けると学校だった──そんなこともあった。
幻影と現実、虚像と事実が交錯して、僕は不安に飲み込まれる。
ただ、彼女は僕を否定しない。
重力のようなこの世界の圧を、彼女だけが抜いてくれる。
気づけば僕は、彼女の部屋のインターホンを鳴らしていた。
ドアが開き、彼女は僕の唇に口づけた。
僕はヘタレだったから、こういうのは初めてだった。
彼女が僕の中に入り込んでくる感覚。
もう逃げられない。
彼女は会うたびに、僕の一部を噛み、食らっていくようだった。
この灰色の世界で唯一の「彩」が、彼女だった。
布団に入っても眠れない。母からの連絡が増えていた。
先日は勝手に部屋に入り込まれて、散らかり具合を見られてしまった。
「実家に戻ってきなさい。無理しないで」
そう言われたけれど、ここは僕の聖域。彼女の匂いが染み込んでいる。
誰にも侵されてはならない。
部屋のゴミが増え、足の踏み場がなくなってきた。
壁の汚れさえも宝物だ。
「君がいないとダメなんだ」
──そう思ったことなんてなかったのに、今はそれしか思えない。
僕は薬に手を出した。コップ一杯の水と、自分の唾液で飲み下す。
体は金属のように重く沈む。けれど意識だけが、どこまでも冴えていた。
夢を見た。とても幸福な夢。
彼女に、完全に捕食される夢。
肉を裂かれ、痛みが快感になっていく。
毎晩、彼女に食べられる夢を見ては目を覚ます。
夢と現実の境界が崩れていく。
ある日、目覚めると、部屋に母親がいた。
静かに、何かを差し出してきた。
「……これ、見て」
古びた写真。
幼い僕と──彼女が並んで写っていた。
「ちがう……それは……ちがう!!!」
僕は絶叫した。
母は静かに、何かを察したように部屋を出て行った。
「君は私。私は君」
彼女の言葉が脳を焼く。
吐き気、めまい、耳鳴り。
僕は祈るように言葉を漏らした。
「……会いたい。君に……会いたい」
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