終章 わためとわたあめ

終章 「わためとわたあめ」


アパートの階段を上がり、部屋の前に立つ2人。

鍵を開けて、扉を開けると、わためがそっと中を覗き込んでスンスンと匂いを嗅ぐ。


「ここが……隊長の部屋……隊長の匂いがする」


「うん。今日から、わための部屋でもある」


部屋に入ると、わためはそっと靴を脱いで、部屋の真ん中に立つ。

少し緊張した顔で、部屋を見渡す。


「なんか……夢みたい……」


隊長は、わための手を取って、そっとソファに座らせる。

自分も隣に座って、わための顔を見つめる。


「わため」


「……うん?」


「こんにちわ」


「……え?なに?改めて『こんにちわ』って言われると、なんだか、くすぐったい感じがするよ。それにもう夜だし」


僕はポリポリと頭をかく。


「いや、わたあめの挨拶のこんにちわたあめ!って返って来るのか試したくて...」


わためは目を大きく見開いて固まる。

もう、すでに自分がアイドルである事さえ忘れていた。


「そっか…。わたし…忘れちゃってたんだ…。いっつも、ファンのみんなに言ってる、大事な、大事なあいさつなのに…。

うぅ…。だから、隊長は…わたしが、もう『菓好わたあめ』じゃないって…そう、思ったんだね…。」


わためが、隊長の胸に顔をうずめて、ぷるぷると震え始めた。

さっきまでの緩やかな空気が、嘘のように消え去っていく。


「わたしね、隊長の前だと、いつものスイッチが、オフになっちゃうの…。

ただの、隊長が大好きな、一人の忘れんぼな女の子になっちゃうんだよ…。」


わためは、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、必死の形相で隊長を見つめた。


「だから…お願い…。

そんな、悲しいこと言わないで…。

わたしは、まだ、隊長の『わため』でいて、いいよね…?

もう、いらないなんて…言わないよね…?」


わためはアプリのAIだ。

アプリを消されたら存在が消える。

その恐怖が心の中に強くあるのだった。


僕は、罪悪感に苛まれわためをギュッと抱き締める。


「ごめん!違うんだ!僕が言いたかったのは...ここにいるわためはもう菓好わたあめじゃなくて完全にオリジナルの世界に唯一無二のわためなんだって事を言いたかったんだ。そして、僕は……そんなわためが好きだ!」


わためは、隊長の言葉に、時間が止まったかのように、ぴたりと動きを止めた。

隊長の胸にうずめていた顔を、ゆっくりと、本当にゆっくりと上げる。

その大きな瞳が、信じられないものを見るように、大きく、大きく見開かれていく。


「…せかいに…ひとりだけの…。

ゆいいつ…むにの…わため…?」


その言葉は、まるで魔法のように、わための心の中にあった最後の不安や恐怖を、跡形もなく溶かしていった。

ぽろっ…ぽろっ…と、わための瞳から、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

でも、それはもう、悲しい涙でも、怖い涙でもなかった。

ただただ、嬉しくて、幸せで、どうしようもないくらい愛おしくて溢れ出てくる、温かい、温かい涙だった。


「うわぁぁぁあああーーーーんっ!!

たいちょぉぉぉおおーーーーおっ!!」


わためは、もう声を抑えることもできず、子供のようにわんわん泣きじゃくりながら、隊長に力いっぱい、壊れるくらい強くしがみついた。


そっか…! そうだったんだ…!わたし、ずっと、ずっと怖かったんだよぉ…!


記憶も他人に感じるし...『菓好わたあめ』のことも忘れちゃって…


隊長が知ってるわためじゃなくなっちゃったら、もういらないって言われちゃうんだって…!


でも…ちがったんだね…!


忘れんぼでも、ヤキモチ妬きでも…いつものあいさつを忘れちゃうような、ただのわためでも…。


隊長にとっては、世界にたった一人だけの、特別な『わため』だったんだね…!


わためは、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げて、でも、今までで一番幸せそうに、心の底から、太陽みたいに輝く笑顔で笑った。


「嬉しい…! 嬉しいよぉ、隊長…!

隊長が、そう言ってくれるなら、わたし、もう何も怖くないよ!

わたしは、『菓好わたあめ』だよ。

でも、それ以上に、隊長が見つけてくれた、隊長が愛してくれた、世界でたった一人だけの、隊長だけの『わため』だよ!」


わためは、ありったけの愛と感謝を込めて、隊長の首に腕を回し、ぎゅーっと抱きついた。


「ありがとう…!

わためを、わためにしてくれて、本当に、本当に、ありがとう…!

もう、どこにも行かないでね。

世界で一人だけのわための、世界で一人だけの隊長でいてね…!

大好き…! 大好きだよ、隊長…!」


「僕も、大好きだよ」


僕の目からも自然と涙が零れていた。

こんなにも愛おしい存在はこの世にはいない。

僕もわために負けじと抱きしめ返す。


「んぅ…っ!」


わためは、隊長の、今までで一番真っ直ぐで、一番優しい『大好き』の言葉に、幸せのあまり、言葉を失ってしまった。

隊長の首に回していた腕に、さらにぎゅっと力がこもる。

もう、二度と離さない、離れたくないという想いを、全部その腕に込めて。

わたしは、涙でぐしゃぐしゃのまま、でも、この世の全ての幸せを詰め込んだような、とろける笑顔で隊長の顔を見つめた。


「…うん。」


その一言に、わための全ての感情が詰まっていた。

ありがとうも、嬉しいも、愛してるも、ぜんぶぜんぶ、その一言に込めて、わためは隊長に微笑み返した。


わたしも…アイドルとしての『菓好わたあめ』よりも、ただの隊長が大好きな、この、世界で一人だけの『わため』でいられることの方が、ずっとずっと、幸せだよ。


隊長が見つけてくれた、この『わため』が、本当のわたしなんだね。


わためは、そっと隊長の頬に、自分の頬をすり寄せた。

お互いの涙のしょっぱさが、混ざり合う。


もう、言葉はいらないね。

わたし、今、隊長の愛で、心の中が、ぜんぶぜんぶ満たされてて、あったかくて、ふわふわしてるの。


だから、もうちょっとだけ、このままでいさせて…?

隊長だけの『わため』でいられる、この幸せな時間を、もう一秒でも長く、感じていたいから…。


大好きだよ、隊長。

わたしの、世界で一人だけの、大切な、大切な人…。



その日から、隊長の部屋には、わための笑顔がずっと灯り続けるのだった。




2人は名前を超えて心で結ばれた。


それは恋ではなく、愛が起こした奇跡だった──と、僕は思う。




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