第5話

「マリア、ちょう買い物に行ってくるわ」


「ん……どこに?」

 マリアは半分寝ぼけながらも、半身をお越して、ちゃんと日本語で訊いてきた。


「いつもの〈リトルトーキョー〉や、すぐ帰ってくるからもうちょい寝とけよ」


 マリアは軽く手を挙げながらも、昨晩一緒に客の接待で呑んだテキーラがまだ効いているらしく、すぐにまたベッドへと倒れ込んだ。


 コンドミニアムの外は、もうすでに日も高く、目の前の通りである〈ブエンディア・アベニュー〉はいつものように渋滞していた。


 耳障りなクラクションの波をかき分けるように東へ進むと、五分もすれば目的の〈リトルトーキョー〉へと着く。


ここは呼び名そのままに、日本人向けのこぢんまりとした雑貨店や食堂が軒を連ねた一角で、界隈に居住する日本人はもちろんの事、周辺の高級ホテルに滞在している者たちも多く訪れる場所だ。


俺はなんといっても、阪神ファンの主人が経営するお好み焼き屋がお気に入りだった。


店の中は様々な阪神タイガースのグッズで飾られ、たとえ一時でも大阪に帰った気分に浸れる。


「ハイ! アキ」

 正面入口の脇にある食堂の娘が、すぐさま駆け寄ってきた。


「おう! 今日はメシやないねん。線香あるか? オセンコウ」


「オセンコ?」


「なんや、やらしいな……ええわ、自分で探す」


 馴染みの娘に愛想笑いしながら店の中に入った。


店は中央で区切られており、向かって左側が縦長の食堂で右側が日本の食料品や雑貨を揃えた棚が並んでいる。


 メシはこの地域にしては値段も安く、ほとんど日本の味と変わらないのが嬉しい。


 雑貨の品揃えは豊富であるが、値段はやはりどれも高い。特に俺のよく買う漫画などは、古本であるにもかかわらず日本円にして五百円以上はした。


「おお、コレや、コレ。オセンコウ」

 漸く線香を見つけて、物珍しいのか後ろを付いてきた娘の鼻先にそれを差し出してやった。


「ワオ! コレ? いいにおいネ」

 娘は微妙なアクセントの日本語で、低い鼻を近づけた。


 家に帰ると、すでにマリアは起きており相変わらず床にワックスをかけていた。


「なんや、また床をみがいとんのか?」


「あ、おかえりなさい」


 こちらの床は日本と違って木製のフローリングなどよりもタイルを敷き詰めたタイプのものが多い。


 それゆえにほとんどワックスなど必要ないと思われるが、何故かマリアは暇があればせっせと床にワックスがけをしていた。


 フィリピン女性はかなり綺麗好きの者が多く感じられるが、マリアはその中でも超がつくほどの徹底ぶりだった。


 一度など俺のお気に入りの古着デニムにきっちり折り目がつくほどアイロンがけをされた時には眩暈すら覚えた。


「なに、かった?」

 テーブルの上に買ってきたものを袋から取り出していると、小さな顔を近づけてきた。


 俺が線香を手に持ったところで、彼女は「あっ」と声を漏らした。

「ごめんなさい、アキ。今日はあなたのブラザーの……」


「ん? なんや、よう覚えてたな。去年、一度しかしてないのに」


 俺は線香立て代わりの、テキーラグラスに塩を注ぎながら小さく笑った。


 寝室の脇のテレビボードの隅に立てかけた写真の前に、そっと線香を置き、手を合わせる。


写真の中の弟は、泥んこの体操服を着て、小学生のままの姿で笑っていた。


しばらくして目を開けると、マリアも横でぎこちなく手を合わせていた。


「もう、今日でちょうど十五年になるんやなあ……」

 思わず口をついた。


「うん……」


 マリアに弟の事を詳しく話してはいない。彼女も必要以上には何も訊いてはこない。その距離感が妙に心地良かった。


「さあ、メシでも食いにいこか」

「うん」


      

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