星屑の万華鏡 ー 素晴らしき宇宙レーサーたちにポンコツ機で挑む、宇宙超凡人田中一郎が赤い大地で成層圏の彼方に見た夢と未来についての記録 ー
おこばち妙見
第0話 老人と少女の宇宙旅行
少女が祖父の家を訪ねるのは、初めてのことであった。
広い果樹園には、リンゴがようやくつぼみを膨らませている。
空はどんよりとした雲が立ちこめており、雨が降ったばかりで肌寒い。
肩口で切りそろえた黒髪が風に揺れると、少女は肩をすくめた。
そんな少女の様子に、老人は敏感に気づいたようだった。
「冷えるか?」
「ううん。平気」
「そうか。向こうはずいぶん蒸し暑いそうだが……ここはいつもこんな感じだ。だが、すぐに晴れる。晴れるとカラッとして気分がいいぞ」
祖父は少女に気を遣っている様が見て取れた。
母から小学校でいじめられているのを聞いているのだろう。
少女がこの村に来たのは、少しでも気分転換になればという母の配慮だった。
少女にしてみれば、余計なお世話であった。
物心ついてから祖父とはほとんど会ったことがなく、何を話していいのかもわからない。
少女は祖父について田園地帯を歩いていた。
右を見ても左を見ても、果樹と納屋しかない。
「ねえおじいちゃん、どこへ向かってるの?」
「もう着いたよ、この納屋だ。わしのオモチャを見せてやろうと思ってな」
「オモチャ?」
祖父はウィンクすると、納屋の扉を開いた。
「わあ……!」
中に入っていたのは小型の赤い宇宙船だった。
流線形の魚のような機体は、ワックスをかけられてピカピカに光っている。
全長は八メートルほど。
機体後部に装備された、四連電磁スラスターのアルミ製冷却フィンの奥までしっかりと磨き込まれている。
機首と側面には、製造元の総合重工業スミス&ハミルトン社のロゴが描かれていた。
「スカイラークRC42MkⅡスター・キング。おまえの母さんが生まれた年に買った機体だ。よくせがまれて乗せてやったものさ」
「これ、動くの?」
「もちろん。多少型は古いが、自家用機としては申し分ない。どうだ、乗ってみたくはないか?」
「乗りたい乗りたい!」
祖父は納屋の壁を指さした。
中身のない宇宙服が、まるで農作業に使う作業服のように吊り下げられている。
銀色のアルミ蒸着繊維でできており、宇宙船同様に見たこともないほどの旧型であった。
「よし、それじゃあまずそこの宇宙服を着るんだ。コックピットは気密されているが、小型機に乗るときは規則で着なければならん。着方はわかるか?」
「大丈夫……たぶん」
「そこで着替えるといい。わしは向こうを向いていよう」
少女はトラクターの陰で服を脱ぐと、宇宙服の二重ファスナーを開けて身体を滑り込ませた。
サイズはぶかぶかだが、要所要所に調整用のベルクロがあり、動くのに支障はない。
祖父は少女の宇宙服を確認すると、金魚鉢状のヘルメットを被せてくれた。
「いいぞ、さあ乗るんだ」
祖父に抱えられ、左側の座席に乗り込む。
後部にも座席があり、どうやら四人乗れるようだ。
座席には自動車のそれと同じようなシートベルトがあったので、言われるまま体を緩衝シートに固定した。
操縦席にはハンドルのような操縦桿と、無数の計器が整然と並んでいる。
祖父は反対側から操縦席へ腰を下ろすと扉を閉め、チェックリストに目を通し、鉛筆でレ点を入れていった。
「小型の自家用宇宙船には必要ない儀式だが、昔の癖でな。やったほうが落ち着く」
「おじいちゃん、本当に宇宙パイロットだったの? お母さんがホラ吹いてたのかと思った」
「ええいジェーンのやつ! いい加減なことばかり言いおって! わしは月軌道周回耐久レースで優勝したこともあるんだぞ!」
「そんなあ、初耳だよお!」
「太陽系一周レースだって入賞したわい!」
「すごおい!」
いつの間にか、少女は祖父と打ち解けつつあった。
「さあ動かすぞ。コンタクト!」
祖父が大げさな身振りでスタートボタンを押すと、サイクロトロンが回転を始めた。
現代の宇宙船の主機関はEMドライブ、あるいは開発者の名を取ってシートン・ドライブと呼ばれる、ある種の電磁推進が主力となっていた。
物理学者R・シートンは、プラチナ鉱石の精製残渣から未知の鉱物、エレメントXを発見した。
エレメントXは特殊なサイクロトロン、通称ワッツィトロンが作る力場の中で触媒として働き、銅などをロスなしで質量の一〇〇パーセントをエネルギーに換えるという驚くべき性質を持っていた。
さらに制御剤としてカルシウムを加えることで、従来の化学ロケットとは比べものにならない推進力を持つエンジンを開発したのだ。
宇宙船の主機関としては理想的なものであり、各惑星のテラフォーミングもこの技術無しではなし得なかった。
回転ノコギリのような作動音が徐々に高まっていき、アイドリングで安定した。
「ベリファイ・チェック。オール・グリーン。さあ行くぞ、心の準備はいいか?」
「うん!」
音もなく機体が浮かび上がり、着陸脚が自動的に収納される。
ゆっくりと納屋を出ると、雲間から少しだけ青空が見えた。
「舌を噛むなよ」
「わあっ」
まるで世界がひっくり返ったかのように感じられた。
実際には、宇宙船が機首を上げたのである。
サイクロトロンの作動音が高まり、全身がシートに押しつけられた。
呼吸ができない。
「か……からだ……重い……っ!」
「はっはっは、これでも全速の二割に過ぎん。もっとも、レーサーの操縦はもう体がついて行かんがな。やれやれ、年は取りたくないものだ」
少女と違い、祖父は鼻歌交じりだった。
操縦桿やスロットルレバーを流れるように操作する姿は、キビキビとしてとても老人とは思えない。
前面風防は霧のように真っ白だった。
側面窓に目をやると、斜めになった平野が広がっている。
白いのは霧ではなく、雲だったのだ。
雲は一瞬で途切れ、今度は視界全域が青に覆われた。
大地の代わりに雲海が地平線まで続いている。
「雨だ、晴れだ、というのは地上の話。雲の上はいつも晴れだ。永遠にな」
「信じられない……!」
「そして昼だ、夜だ、というのもやはり地上の話だ。成層圏を越えて、地上一〇〇キロのカーマン・ラインを超えると……」
視界を覆う青はどんどん濃くなっていき、やがて闇の中に小さな光がいくつも見え始めた。
「おじいちゃん! 星! 星が見える! こんなにたくさん! 昼間なのに!」
「ふふふ……窓の外を見てごらん」
少女は側面窓をのぞき込んだ。
「えっ……あれって……」
「わしの家だ」
祖父の住むブリテン島が見える。
それどころか、ヨーロッパも、地中海も、長靴のようなイタリア半島も一望できた。
向こう側に見える大地はアフリカだ。
それらもどんどん小さくなっていく。
丸い地球が青く光る大気のヴェールを纏っているのがよく見えた。
「見てごらん、レイ。国境線なんて、どこにも見えないだろう」
「すごい……地球がこんなにきれいだなんて。あっ、あれってオーロラ?」
北極付近では、虹色に輝く帯が揺れていた。
「そうだよ。これに乗れば月までだってあっという間だ。火星だって一週間もあれば着く。どこへ行くにも自由だ。どうだ、面白いだろう」
「うん!」
楽しそうな少女の様子を見て、老人は感心したように目を見開いた。
すでに加速をやめ、軌道運動と重力が釣り合う自由落下に移行していたのだ。
砕いていえば無重力である。
「何ともないのか?」
「なにが?」
「無重力は人を選ぶ。訓練をしなければ、宇宙酔いで気分が悪くなったりするものだ。本当に何ともないのか?」
「ぜーんぜん」
「そうか。どれだけ訓練しても、三半規管が適応できない体質の者もいる。おまえは
祖父は嬉しそうな顔をすると、自分の膝を叩いた。
「どうだ、ちょっとだけ操縦桿を握ってみないか?」
「いいの?」
「お母さんには内緒だぞ。さあおいで。なあに、体重は宇宙ではゼロだ」
「えへへ、いいねそれ」
少女はベルトを外すと、泳ぐようにして祖父の膝に乗った。
無重力空間での体の動かし方を、少女は本能的に理解していたのだ。
「たいしたものだ。まあいい、さあやってごらん」
「うん……きゃあっ!」
操縦桿を回すと、視界が急激に回転した。
「はっはっは、もっとそ~っと、優しくな。もう一度やってごらん」
「うん!」
目を輝かせる少女は、もはや以前の少女ではなかった。
そこにいるのは、新たなスペースマンである。
スペースマンは彼方に光る赤い星に目が吸い寄せられた。
「おじいちゃん、あの星は?」
「火星だよ。あそこにもたくさんの人が住んでいる。いやそれどころか、金星にも、木星や土星の衛星にも、冥王星にだって人がいるんだ。何世紀もかけたテラフォーミングによってな」
「知らなかった……だってTVでもやらないし、誰も話題にしないんだもん。世界が、宇宙がこんなに広かったなんて!」
老スペースマンは柔らかに笑った。
「だが、今は知っている。だろう?」
人類が太陽系全土に広がって数世紀。
各惑星に植民地が建設され、多くの人々が宇宙に進出したのもつかの間、いつしか宇宙移民の数は頭打ちとなり、減少に転じていた。
いくつもの植民地が放棄され、地球回帰が進んでいた。
人類は衰退しつつあったのだ。
しかし老いて消えゆく者もあれば、希望を抱いた若者もまた現れる。
少女が初めて宇宙を飛んだまさにその頃、遙か火星でまた新たなスペースマンが誕生しつつあった。
彼らが出会うまでには、紆余曲折を経てかなりの時間を待たねばならない。
だが、宇宙規模の時間においては、ほんの一瞬の未来にすぎないのである。
時は未来。所は宇宙。
そこには無限に広がる空間と、永遠の時間だけがあった。
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