第42話お前の狙う「的」って、俺のことだったのか。


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ベランダで吸うタバコは、罪悪感の味がした。

先週末、俺は後輩のアヤカと一線を越えた。5年間、俺のダメな部分も全部受け入れてくれたミサキを裏切って。この煙と共に、俺の中の黒い澱も消えてくれればいいのに。


そんなことを考えていた時だった。胸元に、赤い小さな光点が灯ったのは。


「ん?」


子供のレーザーポインターか何かだろう。最初はそう思った。だが、その赤い点は、まるで意志を持っているかのように、俺の心臓の位置から一ミリも動かない。悪質ないたずらにしては、精度が高すぎる。


嫌な汗が背中を伝った。まさか、と思いながら視線を上げた先、向かいの建設中ビルの窓が、夜の闇の中で黒い口を開けていた。


その瞬間、世界から音が消えた。ミサキの言葉が、脳内でフラッシュバックする。



あの日、泥酔した俺をアヤカはホテルに誘った。「一回だけだから」と呪文のように唱え、俺は一線を越えた。


翌日、何食わぬ顔で帰宅すると、ミサキはいつも通り「おかえり」と微笑んだ。だが、その笑顔がどこか張り付いたように見えたのは、俺の罪悪感のせいだと思っていた。


変化があったのは、週の半ばだった。


「ねぇ、健太。私、新しい趣味を見つけようと思うの」

ソファで雑誌をめくっていたミサキが、唐突に言った。

「そういえば昔、お父さんに連れられて、自衛隊の駐屯地祭とか行ったなぁ。クレー射撃、かっこよかった」

「射撃ぃ? 物騒だな」

俺が笑うと、ミサキは真顔で続けた。

「的の真ん中に当たると、すごく気持ちいいんだって。日頃のストレスとか、悩みとか、ぜんぶ吹き飛ぶみたい。動く的でも、ちゃんと狙えば当たるんだって」


そういえばミサキは、一度ハマると完璧になるまでやめない奴だった。編み物も、料理教室も、講師の資格を取るまで続けていた。あの時の、獲物を狙うような常軌を逸した集中力を、なぜ俺は忘れていたのだろう。


そして今日。ミサキは「サークルの集まりがあるから」と書き置きを残して出かけていた。俺は罪滅ぼしのつもりで、彼女の好きなケーキを買って帰ってきた。箱を開けながら、どうやって謝ろうか、必死で言葉を探していた、まさにその時だった。



「……そっかよ」


胸に灼熱の杭を打ち込まれたような衝撃。俺はベランダの床に崩れ落ちた。口から鉄の味が溢れる。


点と点が、今、最悪の線で繋がった。

ストレス。悩み。動く的。


ああ、ミサキ。お前の狙う「的」って、俺のことだったのか。


震える手で、ポケットからスマホを取り出す。カメラを起動し、最大までズームして、ビルの窓に向けた。手ブレでぼやける画面の中、一瞬、見慣れたシルエットが映った気がした。長い髪をポニーテールにした、ライフルのスコープを覗き込む、俺の彼女の姿が。


ごめんなんて、もう遅い。馬鹿だった。本当に馬鹿だった。ミサキの作る味噌汁がなければ、俺の一日は始まらなかったのに。彼女の寝顔を見ている時だけが、本当に安心できたのに。俺は、自分の手で、その全てを壊してしまった。


薄れゆく意識の中、手の中のスマホが軽快な音を立てて震えた。画面に表示されたのは、ミサキからのLINE通知。


『ごめんね、今夜は片付けられそうにないから』

『粗大ゴミ、出しといてくれる?♡』


そのメッセージが、俺の見た最後の光になった。

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