第7話『場外乱闘編』静かなる食卓の戦い



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### 『追体験』


あれから数日。

健太はまだ、この家にいた。

離婚届にサインはしたものの、「話し合いたい」「もう一度チャンスをくれ」と見苦しく泣きついてきたのだ。わたしは彼の両親の手前もあり、彼が新しい住まいを見つけるまでの数日間という条件で、幽霊のような同居を続けていた。


わたしは元々、少しおっちょこちょいなところがあった。健太も「美咲はドジだから、俺がいないとダメだな」なんて、保護者のように笑っていた。

その「ドジ」が、今、最大の武器になる。


もちろん、ただ大人しく待ってあげるつもりなど、毛頭ない。

「浮気したらどうなるか」、その講義はまだ始まったばかりなのだから。


講義は、夕飯から始まった。


「いただきます」

恐る恐る箸をつける健太。その日のメニューは、彼の好物だった肉じゃが。一口食べた彼の顔が、わずかに歪む。

「…あれ? 美咲、これ…しょっぱい、かな」

「あら、ごめんなさい! ちょっとお醤油、入れすぎちゃったかしら」

わたしは悪びれもせず、にっこりと微笑む。健太は「いつものドジか…」とでも言いたげな顔でため息をつき、お茶で流し込むようにして、罰ゲームのようにしょっぱい肉じゃがを食べていた。


翌日の食卓には、麻婆豆腐が並んだ。

健太がスプーンで口に運んだ瞬間、彼は激しくむせ返った。

「かっ…! 辛い! これ、辛すぎないか!?」

「あら、ごめんね! あなた、辛いの好きかなって思って、豆板醤をサービスしちゃった」

わたしは自分の分は事前に取り分けておいた、辛さ控えめの麻婆豆腐を涼しい顔で頬張る。ヒーヒー言いながら水をがぶ飲みする健太を横目に、心の中で笑った。


その次の日は、野菜炒め。健太は無言で箸を進めている。いや、進んでいない。

「どうしたの? お口に合わなかった?」

「いや…その…味が、ない、よ」

そう、その日の野菜炒めは、ただ油で野菜を炒めただけの、素材の味(笑)の塊だ。

「あら、ほんと? ごめんね! 最近ちょっと、物忘れがひどくって」

わたしはわざとらしく自分のこめかみをとんとんと叩いてみせる。


食事だけではない。

「うわっ、熱っ!」

バスルームから悲鳴が聞こえる。給湯器の温度設定を、彼が入る直前にマックスの75度に上げておいたのだ。火傷しないギリギリの熱湯。かと思えば、次の日は真冬の水道水と同じ温度の水風呂だった。

彼が大事にしているブランドのワイシャツは、わたしの赤いカーディガンと一緒に洗い、まだらに汚く、安っぽいピンク色に染めてあげた。


健太は日に日にやつれていった。会社ではわたしの父である部長からの突き上げで針の筵。家に帰れば、わたしからの静かで執拗な嫌がらせ。彼の精神がすり減っていくのが、手に取るように分かった。


ある夜、彼が亡霊のような顔でリビングにやってきた。

「美咲…もう、やめてくれ」

「何のことかしら?」

「分かってるだろ! 食事も、風呂も、洗濯物も…! 俺が悪かった。謝る。だから、もう普通にしてくれ…!」

彼は床に膝をつき、懇願するようにわたしを見上げた。


わたしは読んでいた本をパタンと閉じ、虫けらを見るような冷たい視線を彼に注いだ。


「普通? あなたが壊した日常を、どの口が『普通にしてくれ』なんて言うの?」

「……っ」

「わたしが毎朝、どんな気持ちであなたのお弁当を作っていたか分かる? わたしが毎晩、どんな想いであなたの好きなものを作っていたか、考えたことある?」

「それは…」

「しょっぱい? 辛い? 味がない? あなたがわたしにした裏切りは、そんなものより、もっとずっと、しょっぱくて、辛くて、味気ないものだったのよ」


わたしの言葉は、刃物のように彼の心を抉っていく。


「これは仕返しじゃないわ。これはね、追体験。あなたがわたしに与えた苦しみを、ほんの少しだけ、あなたにも味わってもらっているだけ」


わたしは立ち上がり、彼の目の前に一枚の紙をひらりと落とした。それは、新しく契約したタワーマンションの契約書のコピーだった。最上階の角部屋。


「明日、わたしはこの家を出ていくわ。あなたの荷物は、週末にでも業者に頼んで処分させてもらうから、必要なものだけ持っていくことね」

「待ってくれ、美咲!」

「ああ、それから」


わたしは、とどめの一言を彼にプレゼントした。


「正式に、プロジェクトから外されるそうね。お義母さまが泣きながら電話してきたわよ。あなたのせいで、うちの会社と、お義父さまの会社の取引も白紙になったって。大変ね」


浮気したら、どうなるか。

家庭も、仕事も、信用も、親の会社も、すべてを失う。

講義はこれでおしまい。あとは、自分のしたことの代償を、生涯かけて味わい続ければいい。


* * *


美咲が出て行った翌日。

俺、健太は、やつれた体を引きずって会社へ向かった。だが、誰も俺と目を合わせようとしない。昨日まで談笑していた同僚たちは、俺を汚物でも見るかのように遠巻きに通り過ぎていく。

部長、美咲の父親が、役員会で全てを話したのだ。俺は完全に閑職に追いやられた。実家からは、勘当を告げる父の怒号と、母の泣き声が留守電に残っていた。


夜、空っぽの家に帰る。

静まり返ったリビング。もう、しょっぱい肉じゃがも、味のない野菜炒めも出てこない。誰もいない。何も出てこない。

俺は冷蔵庫を開け、コンビニで買った冷たい弁当を無言で口に運んだ。


味は、しなかった。


美咲が言っていた「追体験」の意味を、俺は生涯をかけて、この何もない食卓で理解し続けるのだろう。

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