第8話『灼熱の審判』
灼熱の審判
煌めくシャンデリアが、磨き上げられたマホガニーのテーブルに柔らかな光を落とす。窓の外には、宝石を散りばめたような東京の夜景。ピアノの甘い旋律が、私たちの未来を祝福するようにラウンジに満ちていた。
「さあ、最後の仕上げだ」
目の前で微笑む彼、浩一がテーブルの上に一枚の紙を広げた。婚姻届。
仕事で苦しんでいた彼を支え、彼の借金を私の貯金で肩代わりしたこともあった。全ては、この日のためだった。
「先に僕の分は書いておいたよ。あとは、君のサインだけだ」
私は震える手で万年筆を握った。この万年筆も、彼の昇進祝いに私がプレゼントしたものだ。これで、私たちの名前を刻んでくれるはずだったのに。
妻になる者の欄に視線を落とした、その時だった。
私の視線は、そこに印刷されたような美しい文字に釘付けになった。
『妻になる者 氏名 小野寺 沙希』
知らない名前だった。
「ねえ、浩一…これ…」声が、か細く震える。「これ、誰の名前…?」
浩一は一瞬、気まずそうに目を逸らした。しかし、すぐに諦めたような、あるいは開き直ったような冷たい笑みを浮かべた。
「ああ、ごめん、美緒。俺、結婚するんだ。沙希と。お前の名前を書く欄はないな(笑)。お前が貸してくれた金で買った婚約指輪、沙希もすごく喜んでくれてさ」
時間が、止まった。
「お前との時間も、楽しかったよ。本当に。だから、最後くらいはこうして、最高の思い出を作ってあげたいと思ってさ。お祝いしてくれよ」
お祝い?何を?
ふつふつと、腹の底から何かがせり上がってくる。裏切られた絶望を、一瞬で焼き尽くすほどの、燃え盛るような怒りの炎だった。
「…ふざけないで」
私の口から漏れたのは、獣のような呻き声だった。
私はおもむろにハンドバッグに手を伸ばした。中から取り出したのは、いつもタバコを吸う彼のために用意していた、銀色のライター。
カチリ、と静寂を破る硬質な音が響き、小さな炎が私の指先に生まれた。
「美緒…?何をす…」
浩一の訝しげな声など、もう耳には入らない。私はその炎を、私たちの未来だったはずの純白の紙の端に、静かに近づけた。
じりじり、と音を立てて紙の端が黒く縮れていく。そして、橙色の炎が舌のように這い上がり、『小野寺沙希』という見知らぬ女の名前を舐め尽くし、歪め、灰へと変えていく。
「やめろ!何をするんだ!」
浩一が慌てて席を立ち、手を伸ばしてきた。その瞬間だった。
私は燃え盛る火の玉と化した婚姻届を、彼の胸元めがけて、投げつけた。
「きゃあああああっ!」
近くのテーブルから、女性の甲高い悲鳴が上がる。パニックになった数人が、慌てて出口へと駆け出す。燃える紙片は、浩一の高級そうなジャケットに吸い付くように張り付き、あっという間に炎が燃え移った。
「あ、熱い!ぐ、ああああああああッ!!」
さっきまでの余裕の笑みは見る影もない。浩一は自分の胸を滅茶苦茶に叩き、テーブルクロスを引きずり倒しながら床を転げ回る。甘い香水の代わりに、肉と化学繊維が焼けるおぞましい悪臭がラウンジに立ち込める。
ピアノの音は、とっくに止んでいた。
浩一は助けを求め、周囲に喘ぐように叫んだ。
「誰か!助けてくれ!水を!救急車を呼んでくれ!」
ウェイターが消火器を手にしようと走り出す。しかし、隣のテーブルにいた、全てを見透かすような目をした老紳士が、その腕を掴んで静かに制した。
「やめておけ。あれは、浄化の炎だ」
その一言が、堰を切った。
「最低の男!人の心を弄んで、それが末路よ!」
「そうだ!あんたみたいなクズ、誰も助けるもんか!」
スマホで通報しようとした客の手を、隣のマダムが「野暮なことはよしなさい」とでも言うように、そっと手で覆い隠す。
非難と罵声。逃げ惑う人々の悲鳴。そして、異様な静けさでこの公開処刑を見つめる、冷たい視線。ラウンジは、怒り、恐怖、そして冷酷な好奇心が渦巻く、狂気の法廷へと姿を変えた。
浩一が這うようにして逃げようとすると、別の客がわざとらしく投げ出した足に躓き、転倒する。彼は、四方八方を敵意と無関心に囲まれ、逃げ場を失った。
そうだ。聞いていたのだ。彼らは、私たちの会話の一部始終を。浩一の無慈悲な言葉を。私の絶望を。だから、誰も助けない。それどころか、この地獄を望んでいる者すらいる。
この空間は、共犯者たちの暗黙の合意によって支配されていた。
私は、炎に包まれてもがき苦しむ男を、氷のように冷たい目で見下ろした。
これが、あなたの選んだ未来への祝砲よ。永遠の愛の、灯火よ。
「燃えてしまえ!」
私の祝福の言葉は、もはや私一人の叫びではなかった。
「そうだ、燃えちまえ!」「地獄に落ちろ!」
この場にいる、かつて誰かに裏切られたことのある全ての人々の心の声を代弁するかのように、怒号の合唱が狂乱のラウンジに響き渡った。
誰も助けない。誰も止めない。
ただ、熱狂と憎悪の中で、一人の男が灰になるのを見届けている。
それが、この場の満場一致で下された、灼熱の審判だった。
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