エピローグ1

{沙貴}

昼下がりの薄暗い空が、わたしの心を、さらに冷たく、濃くする。アスファルトの上を、ハイ・ヒールの靴が、コツコツと甲高い音を立てて歩く。その音が、わたしの心臓の鼓動と、完璧なリズムを刻んでいるようだ。そして、ポケットの中で、携帯電話が、冷たく、不気味な存在感を放っている。

和夫の家が、目の前に見えてきた。玄関のドアは、固く閉ざされている。そのドアが、わたしを阻む壁のように、高く、厚く、聳え立っている。わたしは、何の躊躇いもなく、そのドアに向かって歩いてゆく。

インターフォンに、人差し指を伸ばすと、ピーンポーン、と甲高い電子音が、静寂に満たされた住宅街に、不快なほど大きく響き渡る。家の中から、人の気配はしない。留守だろうか。いや、この時間は和夫は外出しないと、橘が言っていた。

音を聞いて、和夫が出てくるはずだ。

一分、二分、三分。時間が、酷く緩慢に進んでゆく。

もう一度、インターフォンを強く押す。


ピーンポーン


その音が、わたしの心を、さらに焦らせる。

「……誰ですか」


ドアの向こうから、低い、濁った声が聞こえてきた。和夫の声だ。その声を聞いた瞬間、わたしの口元が、僅かに歪む。


「……わたしです。結奈です」


わたしの声は、普段と同じ、平坦で、感情の抑揚がない。その声に、和夫は、何も言わない。ただ、ドアの向こうで、何かがガタガタと音を立てるのが聞こえる。

ガチャリ、と音を立てて、ドアが開いた。そこに立っていたのは、紛れも無い和夫だった。相変わらず彼の顔は、無精髭が伸び、目は窪み、頬はこけ落ちている。その姿は、まるで、壊れた人形のようだ。


「ああ……結奈ちゃん……」


和夫の声は、震えていた。わたしは、和夫の家の中へと、何の躊躇いもなく、足を踏み入れる。玄関のドアが、バタンと、大きな音を立てて閉まる。急に、暗い部屋に閉じ込められ、取り残された感覚がして不安になる。

だが直ぐに、背後でパチンと音を立て電気が着いた。

リビングに入ると、和夫は、ソファに、ドサッと音を立てて座り込んだ。その姿は、あまりにも情けない。


「それで、どうしたんですか……?」


和夫の声は、まだ震えている。わたしは、和夫のすぐ目の前に、立ち尽くした。


「……橘さん、知りませんか?」

わたしの言葉に、和夫の顔が、一瞬、強ばった。その顔の変化から、彼らの関係が伺い知れる。

「……橘? ああ、会社の……なんで、あいつの名前が……」


和夫の声は、さらに震えていた。わたしは、何も言わない。ただ、ポケットの中の携帯電話を、音を立てずに取り出した。


「……昨日、彼、死んだんです」


その言葉が、和夫の頭の中で、木槌で叩かれたかのような、鈍い衝撃波となって、全身を駆け巡ったのが手に取るようにわかる。和夫の顔から、みるみるうちに、血の気が引いてゆく。その背中が、一瞬にして、大きく縮んだように見えた。


「な、何を言ってるんだ……? 冗談はよせ……」


和夫の声は、もう、ほとんど聞こえない。わたしは、ポケットから、携帯電話を出し、一枚の写真を抜き出した。それは、昨夜、橘を殺害した現場で、わたしが撮った写真だ。


アスファルトの上に、赤い水たまりが広がっている。その水たまりの中に、ぐったりと倒れ込んだ橘の体が写っている。その写真には、わたしが、わざとらしく和夫の会社の社員証を置いていた。


「これ、どういうことだ……?」


和夫の声は、もはや悲鳴だった。わたしは、容赦もなしに、和夫の目の前に、その写真を突きつけた。


「あんたがやったんでしょ」


その言葉が、和夫の頭の中で、鈍い音を立てて砕け散ったような気がした。


「な……何……?わたしは、そんなこと……してない!」


和夫は、震える手で、首を横に振る。その必死な姿が、わたしをさらに冷徹にさせた。

「……わたし、警察に通報したんです」

その言葉が、和夫の頭の中で、稲妻のように駆け巡る。和夫の体が、大きく揺らぐ。顔は、絶望に歪んでいる。

「通報?何で?」

わたしは、乾いた笑いを浮かべた。

「橘さんを、殺した犯人が、あんただって。通報しました」

その言葉が、和夫の心臓を、鋭い刃物のように突き刺す。和夫の体から、力が完全に抜け落ちる。その姿は更に壊れた人形のようだ。

「待って、それは、違う!わたしは、やってない!」

和夫の声は、聞こえない。その声は、わたしの耳には届かない。

その瞬間、部屋の外から、パトカーのサイレンの音が、遠くから聞こえてきた。


その音が、わたしの心を、ひどく満たしたが、和夫の顔は、絶望に歪んでゆく。それが、はっきりと見える。

「……待って……!やめてくれ……!」

和夫は、震える手で、わたしの腕を掴もうとした。しかし、わたしは、その手を、振り払った。和夫の体が、ソファの上に、ドサッと音を立てて倒れ込む。

「これで、終わりだね」

わたしは、そう言いながら、和夫の家を、後にした。玄関のドアが、バタンと大きな音を立てて閉まる。その音は、わたしの復讐が、完全に完了した音だ。

アスファルトの上を、ハイヒールの靴が、コツコツと甲高い音を立てて歩く。背後から、パトカーのサイレンの音が、さらに大きく、そして、近づいてくる。その音を聞きながら、わたしは、ただ、まっすぐに歩いてゆく。

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