{沙貴}

カフェの喧騒が、わたしの耳を麻痺させる。カランコロンと、鈴の音を真似た不快な電子音が鳴るたびに、自動ドアが開き、冷たい外気が店内に流れ込む。ステンレスのテーブルに置かれたグラスの中で、氷がカチャカチャと音を立てている。冷たい音が、わたしの内側を、じっとりと刺激する。


わたしは、目の前に座る男性をじっと見つめていた。彼は橘という元和夫の同僚で、会社の倒産について、詳しく話を聞き出すために、もう一つの理由のために、呼び出した人物である。

「それで、和夫さんっと会ってなんかあったんですか?」

橘が、興奮したような声で、わたしに話しかける。彼の不快な声に、わたしは合わなければよかったかと、一瞬思う。

「……はい。ちょっと、色々あって」

わたしは、曖昧に言葉を濁す。橘は、わたしの言葉を聞いても、さらに身を乗り出し、興奮気味に話しかけてくる。

「いや、知ってましたよ! あの人、昔から、そういうところありましたもん! 金に汚いっていうか、ずる賢いっていうか!」

彼の言葉から、わたしの内側で、何かがカチャカチャと音を立てて繋がってゆく。

橘の話は、和夫が、会社のお金を横領していた、というものだった。倒産寸前の会社から、自分の懐に、少しずつお金を流していたのだという。橘は、その事実を知っていたが、自分の身の安全を考えて、黙っていたのだという。使えるか、と思ったがそこまでの罪ではない。

「それにしても、和夫さん、今、どこにいるんですか? 会いたいなぁ。ちょっと、昔の話でも、してやりたいんですよ」

橘は、不気味な笑顔を浮かべながら、そう言った。その言葉に、わたしの心臓が、ドクンと大きく脈打つ。

「……はあ、今、和夫さんは、大変なことになってるんですよ」

わたしは、わざと、意味深な言葉を選んで言った。橘は、その言葉に、さらに興奮したようだ。

「え、どういうことですか? なんかあったんですか!?」

橘が乗り出してきたため、わたしは思わず体を後ろに引いた。


そして、わたしは、ニヤリと口元を歪ませる。


「……実は、わたし、和夫さんの家を知ってるんです」


その言葉に、橘は、興奮を抑えきれない様子で、身を乗り出してきた。わたしは、グラスの中の氷を、カチャカチャと音を立てて弄ぶ。


「もし、よかったら、一緒に、和夫さんの家に行きませんか? ちょっと、話を聞いて欲しいことがあるんですよ」

わたしは、そう言いながら、不気味な笑顔を浮かべた。橘は、わたしの嫌な笑顔にも気づかず、わたしの言葉に、食いつくように頷く。


「行きます! 行きますよ! あの人に言ってやりたいんですよ!」

彼のわたしの内側を満たす、高揚感を、さらに強くする。これで、二つの目的が同時に達成される。

カフェを出ると、冷たい外気がわたしの頬を叩いた。アスファルトの上を、靴がコツコツと音を立てる。わたしは、橘のすぐ後ろを、ゆっくりと歩く。橘は、興奮した様子で、わたしの前で、楽しそうに話し続けている。その声は、耳障りで、わたしをさらに不快にさせる。

「まさか、和夫さんが、そんなことになっていたとはなぁ!自業自得だあ」

橘の興奮が、わたしの内側で、さらに冷たい憎悪を育ててゆく。

わたしは目的のため、橘を、人通りの少ない裏路地に誘導する。

壁に囲まれた細い道だ。薄暗く、街灯の灯りがほとんど届かない。路地の奥へと進むにつれて、街の喧騒が、遠のいてゆく。アスファルトの上を、わたしの靴の音が、ドス、ドス、ドス、と響く。


橘は、まだ気づいていない。ただ、興奮した様子で、わたしのすぐ前を、楽しそうに歩き続けている。

「和夫さん、今、どういう顔しているんですかねぇ! 想像しただけで、ご飯が三杯食べられますよ!」

彼の言葉はわたしの心臓を直接叩く。わたしは、無意識に、右手に力を込めた。指先が、ピクピクと痙攣している。この感情の全てが、この手に凝縮されている。

路地の奥へと進むと、日が当たらず、ひんやりとした空気が、わたしの全身を包み込んだ。路地の奥で、わたしの足が、不意に止まる。橘も、わたしの足音に気づき、不意に振り返った。

「あれ? どうしたんですか?」

その言葉に、わたしは、何も言わない。ただ、口元を、僅かに歪ませた。橘は、わたしの表情を見て、一瞬、戸惑ったような顔をする。

その瞬間、わたしの右手が、高速で、橘の顔に当たった。わたしの手に、彼の顔が一瞬歪んだ気がした。


ドスッ!


鈍い、重い音が響く。橘の体が、大きく蹌踉めき、壁に、ガタンッと音を立ててぶつかった。頭から、何かがドロリと垂れる。壁に、赤い液体が、じっとりと染み込んでゆくのが見えた。


「な、何を……」


橘の声は、震えていた。わたしは、再び、右手を振り上げる。

ドスッドスッ!ドスッ!

鈍い、重い音が、何度も何度も響く。橘の顔が、みるみるうちに歪んでゆく。

口から、血がドバッと噴き出した。その血が、わたしの服に、ジワリと染み込む。わたしは顔を顰め、一歩後ろに引いた。

橘は、その場に、ドサッと音を立てて倒れ込む。体は、小刻みに震えている。わたしは、その上に馬乗りになり、右手を、何度も、何度も振り下ろす。

ドスッ!ドスッ!ドスッ!

肉が潰れるような、不快な音が、何度も何度も響く。

橘の体が、やがて、小刻みに震えるのを止めた。その体から、微かに、温かいものが、わたしの手に伝わってくる。

わたしは、橘の体を、そのまま放置し、立ち上がった。アスファルトの上に、赤い水たまりが、ジワジワと広がってゆく。その水たまりから、微かに、鉄の匂いが立ち上る。その匂いが、わたしの鼻腔をつき、逃げたくなる。

わたしは、路地の奥に、ドスドスと足音を立てて歩いてゆく。靴の裏に、何かがベチャリと張り付く感触がする。その感触が不快で、わたしは歩を早めた。

路地の奥から、街の喧騒が、再び、わたしの耳に飛び込んでくる。わたしは、その喧騒の中を、ただ、まっすぐに歩いてゆく。

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