{絵梨奈}
体は、ソファーの上に横たわっている。足元には、ひんやりとした空気が纏わり付く。
指先が、冷たい。全身の力が抜け落ち、重い鉛のようだ。
部屋は、暗闇に包まれている。カーテンの隙間から、僅かに街灯の光が漏れ、天井に、細長く冷たい影を落としている。その影が、まるでわたしを嘲笑っているかのように、細く長く伸びる。
心臓の鼓動が、ドクンドクンドクンドクンと、全身に響き渡る。その音は、わたしの内側で、何かが酷く早い速度で進行している証のようで恐ろしい。
起き上がろうと、腕に力を込める。しかし、腕は、わたしの意思に反して、震えるばかりだ。体が、重い。鉛の塊が、わたしの全身に伸し掛っている。
呼吸が、さらに荒くなる。肺が、焼け付くように痛い。全身は、冷たい汗でべとついている。隅に寄せられた布団を蹴飛ばし、体を起こす。その勢いで、ソファーが、ガタンッと大きな音を立てて揺れた。
部屋の隅から、カサリ、と微かな音が聞こえた。何かの気配だ。一瞬にして、わたしの全身が、凍り付く。その音の正体を探ろうと、暗闇の中に視線を巡らせる。しかし、何も見えない。ただ、そこに、何かが潜んでいるような、じっとりとした気配だけが、わたしの皮膚を刺激する。
恐怖が、わたしを突き動かした。考えるよりも早く、ソファーから飛び降りる。足が、蹌踉めく。
ひんやりとした床の感触が、足の裏に、生々しく伝わる。
闇の中を、手探りで進んでゆく。壁に沿って、慎重に手を滑らせる。
転びそうで恐ろしい。地面に何があるかわからないため、自然と摺り足になっていた。
ふと身体が、何かに触れる。目の前に冷たい壁の感触があった。少しづつ進んでいたため、強かに打つけることはなかった。部屋の隅に来たようだ。わたしは、そのまま、壁伝いに、部屋の出口を探す。
心臓が、激しく脈打っている。耳の奥で、その音が、不快なほど大きく響く。
この部屋から、逃げ出したい。
この闇から、逃げ出したい。その一心だけが、わたしを突き動かしている。
続いて足元が、何かに触れた。それは、硬く、冷たい。そして、少しだけ、湿ったような感触だ。
足が、不意に止まる。屈み込んで、手でその正体を探る。それは、靴だった。わたしの、履き慣れたローファーだ。なぜ、こんな場所にあるのだろうか。
だが、その靴を見た瞬間、わたしの頭の中に、一瞬にして、走馬灯のように、いくつもの映像が、カシャカシャと音を立てて駆け巡った。
アスファルトの冷たい感触。
街灯の光。
路地裏の暗闇。
倒れ込む自分の姿。
そのような映像が、高速で、わたしの内側を通過してゆく。しかし、そのどれもが、断片的で、繋がらない。
そして、その映像の最後に、一つの影が、わたしの視界を焼いた。それは、知っているが、わたしの思考の中で歪み、不気味な形をした影だった。
影が、わたしを見下ろしている。
再び、立ち上がり、壁に手を滑らせた。
足音が、ドス、ドス、と響く。この家は、静まり返っている。父の気配も、母の気配も、今はもう全く感じられない。
ただ、この部屋には、わたしだけが存在している。
部屋のドアに、ようやく辿り着いた。
手を伸ばし、ドアノブを掴む。
ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わった。けれど、回そうとするが、手が震えて、上手く掴めない。
焦りが、全身を駆け巡る。
もう一度、力を込めてドアノブを掴み、強く回す。
カチャリ、と小さな音がした。
ドアが、鈍く、内側に開いてゆく。
その隙間から、廊下の、さらに深い闇が、わたしの目に飛び込んできた。
この闇の向こうに、一体何が潜んでいるのだろう。恐怖が、わたしの全身を支配する。一歩足を踏み出せば、その闇が、わたしを、完全に飲み込んでしまうのではないか。
それでも、この部屋に留まることはできない。この場所は、もう、安全な場所ではないような気がしていた。
わたしは、戸惑いながらその闇の中に、足を踏み入れた。
廊下の床を、素足が冷たく叩く。
ペタ、ペタ、ペタ
足音が、静まり返った家に、大きく響き渡る。
その音は、わたしの内側で、何かが、不可逆的に進行していることを突付ける。
どこへ行けば良いのかが、分からない。ただ、この恐怖から、逃れたい。その一心だけが、わたしを突き動かしているのだ。この均衡は、いつ崩れるか分からない。
冷たい空気が、わたしの全身を包み込む。この家は、もう、わたしの知っている家ではない。全てが、変質してしまった。この闇の中で、わたしは、ただ、じっと、この恐怖が過ぎ去るのを待つしかないのだろうか。それとも、この闇の奥には、もっと恐ろしい何かが、わたしを待ち構えているのだろうか。
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