エピソード6
{沙貴}
アスファルトに倒れ込んだ絵梨奈の背中が、わたしの足元で、小刻みに震えている。夜の闇が、その震えを、より一層、際立たせている。
ひゅうひゅうという、細い呼吸の音が目の前から聞こえてきた。
わたしの心臓が、激しく、不規則に脈打っている。
どくっどくっどくっ
鼓動の音が、耳の奥で、甲高く響き渡る。それが、自分のものなのか、絵梨奈のものなのかは分からない。
ただ、全身の血が、一瞬にして沸騰するような感覚がある。
手足の先が、痺れるように熱い。
この感情は、何だろうか。
怒りだろうか。
憎しみだろうか。
それとも、もっと深く、ねじれた、別のものであろうか。
復讐という意思を持って、わたしの足が、絵梨奈に更に近づく。
一歩、また一歩と、アスファルトを叩きつける音が、夜の静寂に響く。
ドス、ドス、ドス
その音は、わたしの内側で、何かが着実に進んでゆく音だ。
絵梨奈の頭が、僅かに動いた。
わたしを、見ようとしているのだろうか。
いや、その動きは、まるで、壊れた人形のようだ。その怯えが、わたしの口元を、僅かに歪ませる。
笑いが、喉の奥から、せり上がってくる。
ヒューッ、と微かに空気が漏れるような音が裏路地を支配する。それは、人の声ではない。自分が出しているとは思えない、獣のうめきにも似た、不快な音た。
わたしの肩が、僅かに震え、怒りが増大する。
絵梨奈の背中から、微かに汗の匂いがする。恐怖の匂いだ。その匂いが、わたしの嗅覚を刺激し、全身の血を、さらに逆流させる。
もう、絵梨奈は、何も言えない。
何もできない。ただ、そこに、わたしに支配されたまま、倒れ込んでいる。
右手が、勝手に持ち上がる。指先が、ぴんと張り詰めている。その指先が、絵梨奈の頭上、ほんの数センチのところで、ピタリと止まる。
触れる寸前だ。
そのような感触が、脳裏に焼き付く。その瞬間、この感情の全てが、爆発するのだろうか。
脳裏には、あの時の光景が、鮮やかに蘇る。
絶望の舞台になった教室。裏切られた公園。絵梨奈の冷たい視線。
突き放すような言葉。
その全てが、今この瞬間、目の前で、現実のものとなる。あの時、わたしが味わった苦痛の何倍もの痛みを、今絵梨奈に与えることができる。
わたしの内側が、燃え上がるような感覚に塗りつぶされる。
口元が、さらに大きく歪む。
喉の奥から、こみ上げてくるものが、もう抑えきれない。
嗤い声が、わたしの喉から、細く、高く、漏れ出した。乾いた、感情のこもらない笑い声とも、嘲笑ともつく。
その声が、夜の闇に吸い込まれてゆく。その笑い声は、わたし自身の耳にも、ひどく不快に響く。
だが、止めることができない。
止まることができない。
絵梨奈の体が、微かに震える。わたしの笑い声が、絵梨奈の恐怖を、さらに増幅させている。その怯えが、わたしの内側を満たす、この不快な高揚感を、さらに強くする。
足が、勝手に一歩、前に出る。
アスファルトを叩く音が、ドスっと、重く響く。絵梨奈の顔が、地面に、さらに深く押し付けられる。その姿は、まるで、虫のようだ。
踏み潰してしまいたい。そう、漠然と思った。
周りの街の音は、もう聞こえない。車の走る音も、遠くのざわめきも、わたしの耳には届かない。聞こえるのは、わたし自身の荒い呼吸の音と、絵梨奈の、細い呼吸の音だけだ。わたしの世界に今、存在するのは、自分自身と、目の前の絵梨奈だけだ。
手に、力がこもる。指先が、ピクピクと痙攣している。この感情の全てが、この手に、凝縮されている。それを、絵梨奈に向けて、叩きつける。その瞬間を、わたしは、ただ、じっと待っている。
夜空は、どこまでも暗い。星の光も、月の光も、何も見えない。その闇が、わたしの内側の狂気を、さらに深く、濃くしてゆく。
わたしは、ただ、笑い続ける。笑い声は、もう、わたし自身の意思から離れて、勝手に鳴り響いている。それは、わたしが今、完全に支配しているという、確かな証だ。
復讐の瞬間の高揚感は、あの時のわたしの苦痛を、全て上書きしてゆく。
絵梨奈が苦しむほどに、わたしの内側の空白が、満たされてゆく。
時間が、酷く緩慢に進んで行った。この一秒、一秒が、わたしにとって、永遠の恍惚だ。
右手を下ろす。指先が、絵梨奈の髪に触れる。その髪の感触が、手のひらに、生々しく伝わる。そこから、絵梨奈の恐怖が、わたしに流れ込んでくる。
この感情の全てを、この手で、絵梨奈に叩きつける。その瞬間を、わたしは、ただ、じっと、待っている。夜の闇の中、わたしの笑い声だけが、甲高く響き渡っていた。
アスファルトに倒れ込んだ絵梨奈の体が、わたしの足元で、小さく丸まっている。夜の闇が、その存在を、さらに深く沈ませている。呼吸が、ひゅうひゅうと、細い音を立てている。
わたしの心臓が、激しいリズムで脈打っている。
ドクン、ドクン
鼓動音は、わたしの内側で、確かな目的を刻んでいるかのようだ。全身の血が、熱く細胞の隅々まで行き渡る。手足の先が、痺れるように高揚している。
わたしは、絵梨奈のそばに屈み込む。
アスファルトの冷たさが、膝に伝わる。その冷たさが、わたしの高揚をさらに際立たせる。絵梨奈の顔は、闇の中に沈み、その表情は読み取れない。ただ、その体から、恐怖の震えが伝わってくる。
右手が、絵梨奈の腕に伸びる。わたしの指先が、冷たい肌に触れる。ゾワリと、嫌悪感が走る。しかし、それは、すぐに高揚感へと変わる。腕を掴み、わたしは絵梨奈を引き起こした。
絵梨奈の体が、ぐったりと、わたしの腕の中に収まる。重い。苛立ちながら、わたしはかたに彼女の腕をかける。
彼女は、今わたしの支配下にある。
わたしの口元が、僅かに歪み、醜い形相を作る。
笑いが、喉の奥から、ヒューッ、と微かに漏れる。
絵梨奈の重みが、わたしの肩にずしりと食い込む。足元が、僅かに揺らぐ。
夜の街を、わたしは歩き出した。他の人間には、よった友人を担ぐ、面倒見の良い友人に映るだろう。だが、わたしはそんなことを考える間もなく、絵梨奈の家へと続く道を、一歩一歩踏みしめる。アスファルトを叩くわたしの足音が、ドス、ドス、ドス、と響く。
道行く人々が、ちらりとこちらを見る。その視線が、わたしの肩を掠めてゆく。
だが、彼らは何も言わない。彼らは、いつでも、傍観者だ。
無関心が、わたしの心を、さらに冷徹にさせた。
彼らは、わたしの目的を知らない。
そして、彼らが知る必要もない。
絵梨奈の体が、僅かに揺れる。
彼女の頭が、わたしの肩に、コツンと当たる。その感触に、嫌悪感が走る。
しかし、それは、すぐに消え去った。
この忌まわしい存在を今、わたしが運び、彼女の意志で動くことができない。
その事実こそが、重要なのだ。
街の明かりが、点々と灯っている。その光が、アスファルトの上に、細長く伸びている。その光の中を、わたしは、ただ、まっすぐに進んでゆく。行き先は、はっきりしている。絵梨奈の家が、この復讐の、最初の舞台となる場所だ。
脳裏には、何も具体的な思惑は浮かばない。既に全てが決まっていて、今はただ、この体が、わたしを動かしている。
内側から湧き上がる衝動が、わたしを突き動かしている。その衝動に、ただ身を任せるだけだ。
呼吸が、乱れる。だが、それは、疲労からではない。内側から沸き起こる、高揚感からだ。全身の血が、加速する。このまま、どこまでも走り続けたい。この感情に、ただ、浸っていたい。
絵梨奈の家の明かりが、遠くに見えてきた。光は、酷く冷たく、無機質に見える。この場所が、これから、どうなるのか。その想像が、わたしの口元を、再び歪ませる。
足が、さらに速くなる。ドスドスと、アスファルトを叩きつける音が、リズムを早める。
絵梨奈の体が、肩の上で、大きく揺れる。
痛い、とわたしは悪態を着いた。
門を通り過ぎ、敷地内に入る。敷き詰められた石が、足元でジャリジャリと音を立てる。
玄関のドアが、わたしの目の前にある。
しばらく息をつき、何の躊躇いもなく、手を伸ばし、ドアノブを掴んだ。
ひんやりとした金属の感触が、手のひらに伝わる。
鍵は、かかっていない。わたしが開けたからだ。
わたしは絵梨奈が起きそうだと慌て、いそいでドアノブを回した。
カチャリ、と小さな音がした。ドアが、内側へと開いてゆく。
家の中は、暗闇に包まれている。何の音もしない。誰の気配もなく、ただ、重苦しい静寂が、そこに満ちている。
わたしは、絵梨奈の体を担いだまま、一歩、家の中へと足を踏み入れた。
ひんやりとした空気が、わたしの顔を撫でる。
リビングに向かう。
足元に、何かが散らばっているのが、暗闇の中で微かに見える。目を凝らし、空き缶だと気づく。
なぜビールの空き缶がこんなに大量にあるのだろうか。
ソファまでたどり着き、絵梨奈の体を、素早く無造作に、ソファの上に置いた。ぐったりと、絵梨奈の体が、ソファに沈み込む。その顔は、やはり闇の中に沈み、表情は読み取れない。
わたしは、絵梨奈のそばに立ち尽くす。
この場所で、絵梨奈は、これから、わたしの復讐の、全てを受け止めることになる。そう思うと、これからが楽しみになった。
リビングには、静寂が満ちている。聞こえるのは、わたし自身の荒い呼吸の音と、絵梨奈の、細い呼吸の音と、もうひとつの音だけだ。この闇の中で、わたしの口元は、狂気に歪んだままだった。
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