{絵梨奈}
リビングの空気が、少しずつ変わってゆくのをわたしは今感じている。
週末の午後、普段ならば穏やかなはずの時間が、今は薄い氷が張った水面のように、ぴんと張り詰め、一点も緩みがない。わたしはソファに座り、テレビ画面のちらつきをぼんやりと眺めているけれど、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。
気を紛らわせることすら叶わないのだ。
父は、ローテーブルに広げた新聞の向こうで、微動だにしない。ページをめくる音も、今日は聞こえてこない。その姿勢は、まるで硬直した人形のようだ。母は、キッチンで何かをしているが、皿の触れ合う音が、以前よりも鋭く、耳に突き刺さるように響く。以前は、もう少し柔らかく、生活の音として溶け込んでいたはずなのに
────いまは
違う。
夕食の時間、食卓に並ぶ料理は、普段と同じように整っている。
だが、その色合いが、どこか色褪せて見えるのは、気の所為だとは思えない。父は、黙々と箸を進めている。母も、自分の皿を見つめるばかりで、言葉を発しない。以前は、父が今日の出来事を話し、母がそれに相槌を打つ、そんな当たり前のやり取りがあったはずだ。今は、ただ、沈黙が食卓を支配している。
わたしは、自分の皿に盛られたサラダを口に運ぶ。味は、変わらない。味が失せたりは無いのに、何かが違う感覚がある。胃の奥が、重い塊になった様に、食慾を唆らない。
箸を時折置く音が、やけに大きく聞こえる。
誰かが発するその音に、他の二人の体が、微かに反応するが、全員すぐに元の姿勢に戻る。
夜、自室に戻っても、階下から聞こえてくるはずの生活音は、以前のように穏やかではない。
リビングから、微かに聞こえてくる父と母の声は、会話というよりも、感情の乗らない、機械的な音のやり取りに近い。
しかし時折、どちらかの声が、僅かに高くなる。喧嘩のようにぶつかるそのたびに、わたしの心臓が、きゅっと締め付けられる。
何の感情も乗っていない声に、なぜこんなにも、冷たい響きが含まれているのだろう。
なぜ、両親は喧嘩をするようになったのであろうか。
朝、リビングに入ると、父がソファに座って、背中を向けている。母は、キッチンでコーヒーを淹れている。
二人の背中からは、明らかに緊張感が漂っている。
二人の間に、目に見えない壁ができているのが容易に分かる。
空気の淀みのように、わたしの肺は圧迫され、息苦しい。
朝食中も、会話はほとんどない。父が、ちらりと母の方を見た。
彼の視線には、何かを言いたげな、言葉にならない感情が込められているように見えるが、頑なに口を開かない。
母は、その視線に気づかないふりをして、カップを手に取った。
指先が、微かに震えているのが分かる。
結奈が来ない普段の休日ならば、三人で出かけることが多い。しかし、最近は、そんな誘いはもうない。
父は、リビングでテレビを見るか、自室に閉じこもっていることが多い。母は、庭の手入れに精を出すか、一人買い物に出かけてしまう。
わたしは、ただ、その間を、宙に浮いたように漂うしかない。自分の居場所が、曖昧になってゆくような感覚が強まる。
以前は、家庭の中に、確かに「温かさ」があった。
それがそこにあるのが当たり前だった。
けれど、今は、それがどこかに消えている。
探そうとしても、見つからない。
ただ、その代わりに、ひんやりとした空気が、家中を覆っていた。
夕方、父が突然、大きな音を立てて新聞をテーブルに叩きつけた。
あまりの大音声に、わたしは思わず肩を震わせる。
母は、キッチンから出てきて、父の顔を見た。
二人の間に、鋭い視線が交錯する。
そこには、言葉以上の、何か感情のぶつかり合いがある。
それでも、声は出さない。
その無言の圧力の方が、かえって恐ろしい。
わたしは、自分の部屋に逃げ込んだ。ドアの向こうから、何か聞こえてくるのではないかと、耳を澄ます。しかし、聞こえてくるのは、やはり沈黙だけだ。その沈黙が、かえって二人の間の亀裂の深さを物語っているようだ。
この家は、少し前、数週間前まで、わたしにとって、一番安全な場所だったはずだ。
靄がある世界で、揺らぐことのない、確かな足場であった。
だが、今は、その足場が、音を立てて軋んでいるように感じる。いつ、この足場が崩れてしまうのか。その漠然とした不安が、常にわたしの心を覆っている。
靄の一部とかしている。
両親は、わたしに、直接的に何かを訴えることはない。
わたしを、この状況から遠ざけようと、気遣っている。
二人の気遣いは、かえってわたしを孤独にするが、誰にも気づかれない。わたしは家の中でも孤立してゆく。
この変化について、わたしは誰にも話せない。話したところで、何かが変わるわけでもない。
結奈も、信用出来ない。
十時。
一段と濃い夜の闇が、窓の外に広がり、覆い尽してゆく。
部屋の照明を消し、わたしはベッドに横になった。
天井を見つめていると、二人の間の冷たい空気が、この部屋にも入り込んでくるような錯覚に襲われる。
以前は、眠りにつく前に、両親の穏やかな話し声が聞こえてくることもあった。
以前のことばかり、考えてしまう。
今は、何の音もしない。
ただ、静寂だけが、わたしの耳の奥で響いている。
いつからであっただろう。
数ヶ月前から、結奈が毎週のように来るようになった時期と重なる。
結奈の来訪が負担だったのだろうか。
いや、それは考えにくい。前にも友人が頻繁に来ていた時期はあった。
両親の関係の悪化に、わたしはただ、じっと耐えるしかない。何が原因なのか、どうすればよいのか、やはりわたしには分からない。
分かるのは、鬱屈が、日ごとに濃くなっていることだけだ。
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