エピソード1
{絵梨奈}
リビングの窓から差し込む午後の光が、床に長い影を落としている。わたしは、ソファに深く身を沈めて、テレビから流れる、何の変哲もないバラエティ番組を眺めていた。
隣には母が座り、わたしの膝元には父の読みかけの新聞を広げている。
この光景は、もう何年も変わらない。
穏やかで、波風が立たない日々が、わたしの今の生活である。
紅茶の湯気が、カップの縁からゆらりと立ち上った。温かい香りが鼻腔をくすぐるけれど、その温かさが、わたしの心の奥深くまで届くことはない。まるでわたしの内面と外面の狭間の部分に一枚薄い膜が張られているように空虚な感覚がする。
わたしは、ただ、その日常の営みを、ぼんやりと眺めるだけだ。
感情を移入できなくなったのはいつからであろうか。記憶すらなく、分からない。
ただわかるのは、昔はこんなのではなかったということだ。
週末には、たいてい結奈が家に遊びに来る。今日も、もうすぐ来る時間だ。結奈は律儀で、時間通りにこちらに来る。
インターフォンの音が鳴るたびに、母が玄関に向かい、楽しそうな声が聞こえてくるのを、ふと思い出した。
結奈は、どんな時でも、誰に対しても、同じように接する。平等、とも言えるが、誰も好きになれない人間と言える。
わたしのことも、友人と思っているのか分からない。
感情の起伏が穏やかで、決して声を荒げたりしない。けれど、わたしはその声を聞くと、心が一瞬だけ、波立つことなく落ち着く。
結奈がリビングに入ってくる。普段どおりの、少し控えめな挨拶が、穏やかに聞こえる。
わたしは、ソファから体を起こして、軽く会釈を返した。
結奈は、自然な動作で、わたしの向かい側の椅子に腰を下ろす。
彼女の動作には、無駄がない。そう、ぼんやりと思った。
「この前のドラマ、面白かったね」
結奈が、わたしに話しかけてくる。やはりその声は、今日もフラットで、感情の抑揚があまりない。つまらないとは思うが、いつしかわたしには、そんな友人しか出来なくなっていた。
高校時代までは、友人を選べたはずなのに。
わたしは、好かれていたと思っていたのに。
大学時代はどうであったか。思い出そうとするが、記憶は曖昧だった。
そんな高校時代の友人との繋がりは、今や年賀状だけだ。
わたしに友人は、結奈しか居ない。
彼女が話すのは、毎回テレビ番組や、最近のニュース、あるいは近所の店の話題ばかりだ。
自分のことや、個人的な感情について話すことは、ほとんどない。
わたしも、聞かない。聞けないわけでもなく、聞く必要がない、と漠然と思っている。
恐らく聞けば、一般論や曖昧な答えが帰り来る。彼女の感情など、知る由もない。
わたしは、ただ頷いて、紅茶を一口飲んだ。
結奈も、自分の持参した水筒から、何かを飲んでいる。その仕草一つ一つが、無感情で滑らかだ。
二人で同じ空間にいても、そこには、特に熱を帯びた会話が生まれることはない。
沈黙が訪れても、それが気まずいと感じる程の関係でもない。
沈黙が当たり前で、寧ろ話すのは気を使う。互いに、形だけ、「友人がいる人間」を保つための道具に過ぎないのだろうか。
わたしには分からない。自分がどう思っているのかも。
父が、新聞を畳む音。
母が、キッチンで皿を洗う音。
それらの生活音が、わたしたちの間に漂う。わたしは、ふと、結奈の顔を見やる。彼女の顔は、いつ見ても、感情の読めない顔だ。よく言えば、穏やかな表情をしているが、わたしは魅力を見いだせない。
彼女の内側に、一体何があるのだろう。そう考えるけれど、深く掘り下げようとはしない。掘り下げて、一体何になるのだろう。
気づけばわたしは、無気力な人間になっていた。
夕食の時間になる。結奈も、当たり前のように共に食卓を囲む。
母が作った、家庭料理の匂いが漂い、暫くして父が運んでくる。
わたしの隣に座った結奈が、綺麗に淡々と箸を進める。彼女が言うことはあまりに一般的で短い。
気まずくなったのか、父が、今日の出来事を話し始めた。
母が、それに相槌を打つが、話は結奈によって直ぐに沈黙に変わる。わたしは、ただ、目の前の皿を見つめて、黙々と食べるだけだ。
わたしは、この時間が嫌いだ。
家族と食べる際は話が進み、たべ終わったあとも話は続くのに、結奈がいる日は────。
結奈という壁により、会話は跳ね返らず落ちる。
再び、無言になった。
食事が終わり、結奈が手本をなぞるように手伝いを申し出る。
母は今日も、「いいよ、ゆっくりしててね」と答えていた。
わたしは、自分と結奈の皿を片付けにキッチンへ向かう。結奈は、リビングに戻って、ソファに座っていた。
わたしたちの関係は、いつもこんな感じだ。親密さ、と呼べるほどの熱量はない。しかし、わたしが必死に繋ぎ止めるため、途切れることもない。
ただ、横に並んで、同じ時間を共有しているだけで、面白みはない。
けれど、友人がいない人生よりは良い。友人ができないわたしは、それ以上を求める資格がない。
夜遅くになり、結奈が帰る時間になる。玄関まで見送リに、わたしは席を立った。
結奈は普段と同じように、小さく手を振り、わたしも、同じように手を振り返す。結奈の背中が、夜の闇の中に消えていった。
何故か、安堵してしまう。結奈の存在が、友人では無いことを知っている。
共に居ても楽しくもなく、ただ気を使うだけで、いない方が良いと思うことが多い。
だが、「友人」という虚像が崩れ落ちるのが恐ろしい。
わたしは、普通の幸せを失った。思い出せない苦しみが、常にわたしを支配している。
友人が出来ないのはそのせいなのだろうか。
ドアを閉めて、リビングに戻る。
再び、ソファに座った。
静寂が、部屋を満たしている。
両親は、もう寝室に戻ったようだ。
わたしは、一人だ。そんな感覚が強くなる。
わたしは、一人でいるのが怖い。両親がわたしを思っているのか、わたしに居場所があるのか不安になる。
この生活は、平穏だ。誰もわたしを傷つけない。誰もわたしを裏切らない。誰もわたしを、不満げな目で見ることはない。わたしは、安全な場所にいる。そう、分かっているのに、なぜか、胸の奥に、説明のつかない鬱屈がある。
自分の内側に、ずっと解決されないままの、小さな棘が刺っているような感覚だ。
具体的に、何が、どこで、どうなっているのか、はっきりとは分からない。
ただ、わたしの中に、確かな違和感がある。
この平穏な日々は、本当に、わたしが求めているものなのだろうか。
誰とも深く関わらない。
誰にも踏み込まない。
そう言う犠牲を払い、表面だけ築き上げたこの生活は、本当にわたしを「幸せ」にしているのだろうか。
外は、もう完全に暗くなっている。窓の外を見ても、何も見えない。わたしの心の中も、同じように、暗闇が広がっているようだ。
この陰翳は、何なのだろう。この空虚感は、どこから来るのだろう。
わたしは、ただ、ソファに座り続ける。テレビは、もう消えていた。
苦しい。静寂が四方からわたしを雁字搦めにする。
聞こえるのは、自分の呼吸の音だけだ。
わたしは、常に何かを探しているようだ。しかし、それが何なのか、わたしには分からない。
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