【第四章②】

二〇〇五年(平成十七年)九月


 放課後、下松駅近くのカフェ。

 夕暮れが滲むガラス扉を押すと、柔らかな珈琲の香りと、低いざわめきが迎えてくれた。窓際の席には、拓海が腕を組んでうとうとしている姿があった。


 「――おまたせ」


 呼びかけると、彼はゆっくりと顔を上げる。まだ夢の端に触れていたような眠たげな目。けれど、その視線が確かに自分をとらえた瞬間、胸の奥にほっと安堵が広がった。そういう些細なことで、私は彼と繋がっているのだと実感できる。


 席に着くと、氷の解ける音が小さく響いた。

 私は、心の奥に隠していた小さな期待を、思い切って口にする。


 「ねぇ、次の三連休、どうする? どこか行こうや」


 言い終わった途端、自分の声が少し浮ついていたのに気づいて、頬が熱くなる。

 けれど、返ってきた答えは「父さんに会いに行く」だった。


 ――あぁ、そうだった。

 拓海は家族を大切にする人。

 その誠実さを知っていたし、だからこそ好きになったのだと、改めて胸の奥で確かめる。


 それでも、心の奥には小さな落胆が波のように揺れた。けれどそれを見せずに、「残念やね」と笑ってみせる。笑顔の裏で、言葉にならない思いをそっと飲み込んだ。


 連休の初日。

 友達と賑やかに街を歩いていても、意識は繰り返しポケットの中の携帯へと引き寄せられた。


 《今から新幹線乗るけぇ、着いたらまた連絡する》


 たった一行なのに、心はやわらかく温められる。

 《気をつけて行ってきてね。お土産楽しみにしちょるよ》

 指先でそう打ち込みながら、私は友達の笑顔に合わせて歩いた。けれど、心の一部はすでに遠い東京へ先回りしていた。


 翌日。

 カラオケで響く歌声の合間に、そっと携帯を開く。


 《今、渋谷に着いた。すごい人混み》


 その文字を目にした瞬間、思わず笑みがこぼれる。

 雑踏の中を、不器用に歩く彼の姿が浮かんで、胸がくすぐったくなった。けれど同時に、心の奥でかすかな痛みが芽生える。


 ――都会の光が、私の知らない彼の表情を映しているような気がした。


 《いつか、一緒に見に来ようや》


 返ってきた言葉を見た瞬間、胸の痛みはすぐに溶けていった。

 未来を共に描いてくれる。その一文があるだけで、心の奥は静かに満たされた。


 最終日。

 文具屋を出た帰り道、夕暮れに染まる空の下でメールが届いた。


 《今、新幹線乗ったけぇ。今日の夜には徳山に着くよ》


 私は立ち止まり、携帯を胸元に抱き寄せる。

 画面の光が消えるまで目を閉じて、その温もりを確かめるように呼吸を整えた。


 《分かった。明日会えるの楽しみにしちょるよ》


 そう返して、携帯の電源を落とす。

 少しだけ重く沈んでいた心も、明日の再会を思うだけでふわりと軽くなった。

 夜の闇が来ることすら待ち遠しく感じるほどに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る