第四章 【コスモス】

【第四章①】

二〇二五年(令和七年)九月

 

 秋の空は高く、どこか遠く見えた。


 地下鉄の改札を抜けると、少し冷たい空気が肌に触れた。

 地上に出る階段はひとつだけで、スロープのように長い。

 足音が、壁面に反響する。


 外に出ると、思っていたより陽射しは柔らかかった。

 午後一時を過ぎたばかりの東京は、秋の光で少しだけ黄味がかっている。


 乃木坂の駅前は、あまり駅前らしくない。

 コンビニもないし、カフェの看板も見えない。

 車道を一本挟んだ先に、美術館へと続く広い歩道が伸びていた。


 約束の時間までは、まだ三分ある。

 僕はスマホの画面をなんとなく眺めながら、時間を潰していた。


 しばらくして、横断歩道の向こうに綾乃の姿を見つけた。

 秋らしいベージュのカーディガンに、濃紺のスカート。

 少しだけ髪を巻いていて、いつもより大人びて見えた。


「待った?」

「ううん、今来たとこ」


 お決まりのやりとりのあと、僕たちは並んで歩きはじめた。

 すぐそばを車が走っていく音だけが、背景に流れていた。

 

 乃木坂の駅を出て、ゆるやかな坂道をのぼる。

 あたりにはオフィスビルと並んで、なぜか落ち葉の溜まった歩道があった。

 都心にしては静かだった。どこか、日曜日の午後みたいな空気が流れていた。


 綾乃に誘われて、美術館に来た。

 「デザインの仕事をするなら、たまには芸術に触れたほうがいい」——そんな提案だった。


 ガラス張りの巨大な建物が見えてくる。

 正面のアーチから差し込む光は柔らかくて、室内の気配がすでに外にまで滲んでいた。


「やっぱり、ここ綺麗だよね」

 綾乃はそう言いながら、スマホで写真を撮りカバンにしまった。

 ベージュのコートの袖口から、白い指がのぞいている。


 僕たちはチケットを受け取り、軽く会釈を交わしてから、展示室へと向かった。

 どこか緊張感があって、ふたりとも、言葉はなかった。


 中は広くて、静かだった。床の木材が靴の音を吸い込むようなつくりになっていて、どこか時間の感覚まで鈍くなる。


 現代アートと題された展示室には、正直、意味のわからないような作品も多かった。

 色と形がぶつかり合っただけの巨大なキャンバスや、洗濯バサミが宙に浮いているような立体作品。僕には、それが何を表しているのか、さっぱりだった。


 それでも綾乃は、一つひとつ、ちゃんと立ち止まって見ていた。

 小首をかしげたり、少しだけ笑ったりしながら、真剣に目を向けている。


 「……これ、なんに見える?」


 唐突に尋ねられて、僕はその作品と彼女の横顔を交互に見た。

 金属の板をぐねぐねに曲げたようなオブジェだった。


 「うーん……巨大なイカ焼き?」


 綾乃はふっと吹き出して、すぐに口元を押さえた。


 「失礼でしょ、それ作者に」


 「いや、アートってそういう自由な見方するんじゃなかったっけ」


 「……まあ、たしかにね。私は……なんか、人の背中に見えるな」


 そう言って、綾乃はもう一度オブジェに視線を戻した。

 言われてみれば——たしかに、誰かが少しだけ落ち込んでいて、それでもなんとか立っていようとしているような、そんな姿勢にも見えてくる。


 こうやって彼女と話しながらだと、難しそうな作品も少しだけ近く感じた。


「……これ、なんか懐かしい感じがする」

 僕が立ち止まったのは、緑を基調にした、夕方の自然風景を描いた一枚の絵の前だった。


 小高い丘と、そのふもとの川辺。

 手前には名もない草花が、そっと揺れている。

 夕陽に照らされたその光景には、どこか淡い靄のようなものがかかっていて、まるで夢の断片のようだった。


「そう?」

 隣に立つ綾乃が、僕の横顔をちらりと盗み見る。


「うん。……なんか、地元の風景に似ちょってさ」

 そう言いながら、僕は絵の中の空に目をやった。


 実際に見たことがある場所じゃない。

 それでも、風の匂いや、夕暮れの肌寒さみたいなものが、その絵の向こうからじんわりと伝わってくる気がした。


 懐かしさというのは、いつも予告なしにやってくる。

 置き忘れていたはずの何かが、ふいに輪郭を取り戻す。


 思い出すつもりなんてなかったのに。

 記憶のほうが先に歩き出して、僕の手を引っ張っていた。


 そのあと、僕たちは館内のカフェに移動した。


 綾乃は紅茶、僕はホットコーヒーを頼んで、窓際の席に腰を下ろす。店内には静かなピアノのBGMが流れていて、ガラス越しの外の光が、少しだけ秋の匂いを連れてきていた。


 「……もう、一年経つんだね」


 テーブルに置かれた番号札を指でなぞりながら、綾乃がぽつりと言った。


 「ほんと、歳とると一年が早く感じるな」


 「いやいや、綾乃はまだまだ若いでしょ。俺なんて最近、階段上るだけで息切れしてるし」


 「もうすぐ、四十……だもんね?」


 「……まだ三十八だよ」


 軽く苦笑しながら返すと、ちょうどそのとき、カウンターから番号を呼ばれる声がした。


 「俺が取ってくるよ。座ってて」


 そう言って立ち上がり、受け取ったトレーを慎重にテーブルへと運ぶ。カップの湯気が、目に見えるほどふわりと揺れていた。


 「そういえば、年末ってどう過ごす予定?」


 カップに口をつけた綾乃が、何気ない調子で尋ねる。


 「久しぶりに、地元に帰ろうかなって思ってる」


 「拓海の地元って、山口だったよね?」


 「うん。こっちに出てきてから、ほとんど帰ってないけど。お金も時間もかかるから……」


 「どれくらい?」


 「片道、四時間くらい」


 「えっ、そんなに?」


 「本州の端っこだからね。山口って」


 「ふふ、そうだったね。なんか、急にどうして?」


 「この間、同窓会の案内が届いたんだ。高校のやつ。そしたらグループLINEもできて、懐かしい名前が並んでてさ……ちょうど仕事も落ち着きそうだし、行けるかなって思って」


 カップの縁に指先を沿わせながら、綾乃が小さく頷いた。


 「地元が遠いって、いろいろ大変だね」


 「まあね。でも……なんだか、今年はちょっとだけ帰ってみたくなった」


 その後、僕たちは近くの洋服屋を覗いたりしながら、のんびり歩いた。

 秋物の洋服を眺めながら、他愛もない会話を交わす。

 休日の街はにぎやかだったけれど、ふたりでいると、どこか静かな時間が流れているような気がした。


 「……そろそろ、予約の時間だ」


 腕時計をちらりと見ながら僕が言うと、綾乃がパッと顔を上げる。


 「え、もうそんな時間?……ふふ、なんか緊張してきたかも」

 そう言って、小さく笑う。


 「楽しみ、ってこと?」


 「うん。ちゃんとお腹すかせてきたからね」


 「……ハードル上げないでよ」


 「だいじょうぶ。拓海のセンス信じてるから」


 坂をゆっくり下って、一本裏道に入ると、予約していたレストランが見えてきた。

 木の扉に控えめな看板。外から漏れる光はやわらかくて、歩き疲れた身体にはちょうどよかった。


 「……ここ?」


 扉の前で、綾乃が僕を振り返る。


 「写真だけで決めたから、外したらごめん」


 中に入ると、席数は十数席ほどで、照明は落ち着いていた。

 テーブルクロスは生成色で、窓際のカーテン越しに、夕暮れの名残が淡くにじんでいる。


 案内された席に座り、水のグラスを受け取る。

 無理に言葉を探す必要もなくて、静けさがそのまま、居心地のよさになっていた。


 「……すごく素敵なとこだね」

 綾乃が声を落として、静かに言った。

 「ありがとう、連れてきてくれて」


 「喜んでくれたなら、良かった。コースでお願いしてあるから、飲み物だけ選ぼうか」


 僕はビールを選んだ。どんな店でも、一杯目はこれと決めている。

 綾乃は、赤いカクテルを注文していた。


 やがて、最初の料理が運ばれてくる。

 白い皿に、小さく盛りつけられた前菜が並んでいた。スモークサーモン、野菜のマリネ、ハーブのきいたチキンロール。色とりどりの小さな料理が、まるで静かな絵のようだった。


 「……美味しそう。こんなに雰囲気のいいお店なら、もうちょっとちゃんとした服、着てくればよかったかも」


 綾乃が、自分の袖口をそっと引きながら言った。


 「いや、そんなことないよ。綾乃の服、今日もすごくおしゃれだし……似合ってるよ」


 言ったあとで少しだけ照れたけれど、綾乃はうれしそうに微笑んで、視線をテーブルの方に落とした。


 「……拓海って、ほんと優しいよね」

 「……なんで彼女いないの?」

綾乃が、いたずらっぽく聞いてくる。


「うーん。なんでだろう。気づいたら、誰ともそういう感じになってなくて

でも……何かが足りないんじゃない?って言われたら、否定できないかも」


 「そんなことないよ」

 綾乃は、迷いなく言った。

 「拓海はいいところたくさんあるよ」


 「……そう言ってもらえると、ちょっと救われるな」


 コース料理は、間を置かずに次々と運ばれてきた。

 綾乃は一品ごとに目を輝かせて、ほんの少しずつ、丁寧に味わっていた。

 その表情を見ているだけで、僕の心にも静かに灯がともるようだった。


 僕はその横顔を見ながら、心のどこかがふっとあたたかくなるのを感じていた。

 今日、この場所に来てよかったと、素直に思えた。


◇ ◇ ◇


 食事を終えて会計を頼むと、店員が明細を持ってくる。


 「本日のお会計、二万八千円になります」


 綾乃が鞄から財布を取り出そうとするのを、僕はそっと制した。


 「今日は俺が出すよ。……いつも、リフレッシュに付き合ってくれてありがとう」


 綾乃は少しだけ驚いたような顔をして、それから笑った。

 「本当に?」と目が語っていたけれど、僕は黙って頷いた。


  カードで支払いを済ませ、店を出ると、夜風が少しだけ冷たくなっていた。

 空にはうっすらと月が浮かび、静かに照らしている。

 僕たちは駅のほうへと歩き出した。


 「……駅の近くに展望台があるんだけど、最後に寄っていかない? 帰り道だし」


 綾乃は少し顔を上げて、僕を見る。


 「いいよ。ちょうど今の時間なら、きっと綺麗な夜景が見れそうだね」


 「やった」


 小さな声でそう言って、綾乃はほんの少し、ガッツポーズのまねをした。


 ◇ ◇ ◇


 料金を払い、展望台のエレベーターに乗る。

 ガラス張りの空間に出ると、視界いっぱいに東京の街が広がっていた。


 「……わあ」


 綾乃が、思わず息を呑むように呟く。

 ビル群の光が、夜空の星みたいにまたたいている。


 「ホントだ。……たまに近くまでは来てたけど、ここは初めてかも」


 僕も少し息をのんだ。

 まるで模型の都市みたいに、きちんと区切られた光が地面に広がっている。


 その表情が、どこか子どものように素直で、僕はつい見とれてしまった。


 「……こうして見るとさ、このひとつひとつの光に、人がいて、暮らしがあって……って思えてこない?」


 綾乃は僕の方を見上げた。


 「ロマンチックだね」


 茶化すように返すと、綾乃は少し口をとがらせた。


 「バカにしてる?」


 「してないしてない」


 思わず笑ってしまって、綾乃もつられて笑う。

 そんなやり取りが、どこか心地よかった。


 「……ふぅ。ちょっと飲みすぎたかも」


 綾乃が頬に手を当てて、苦笑いのような表情を浮かべた。


 「ベンチ、空いてるよ。ちょっと座ろっか」


 展望スペースの端にあるベンチに腰を下ろすと、綾乃も隣に座り、そっと肩の力を抜いた。

 そして、わずかに僕の方へ身体を寄せた。


 「最近さ、お酒に弱くなった気がするんだよね。……年かなあ?」


 「まだまだ大丈夫だと思うけど」


 「じゃあ、そういうことにしといて」


 綾乃は目元だけで笑って、そっと体を寄せる。ほんのわずかに、肩と肩が触れた。


 「ね、ちょっとだけ近くてもいい?」


 「うん」


 僕がうなずくと、綾乃は安心したように小さく息を吐いた。


 「……ここ、静かで落ち着くね。東京なのに、変な感じ」


 「うん。上から見ると、騒がしい街も、別の世界みたいだ」


 「ほんと。……なんかさ、ずっとここにいてもいいかもって、ちょっと思っちゃった」


 綾乃がそう言って、僕の顔をちらりと見上げた。

 その視線がくすぐったくて、僕は目をそらす。


 「……ねえ、拓海って、彼女つくる気ないの?」


 綾乃は、さっきよりも少しだけ真面目な声で言った。

 ふだんの明るさを残したまま、でも、ちゃんと本心が滲んでいた。


 「どうだろ。今は……あんまり考えてないかも」


 「そっか。……ふーん」


 綾乃は、それきりしばらく黙っていた。

 足をぶらぶらと小さく揺らしながら、夜景の向こうをじっと見つめる。


 「べつに、気になっただけだから。……深い意味は、ないよ?」


 ちょっとだけ照れたように、綾乃が言った。


 でもその横顔は、さっきより少しだけ、寂しそうに見えた。

 ふたりの沈黙だけが、夜景の中に、そっと溶けていった。

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