タロと山の神
もう何度となく通った店。
佐助にはなじみの女ができていた。
金を落とす客だからなのか、素直に好意を抱いてくれているからなのか、その女の様子は佐助には無くてはならないものとなっていた。
そんなある日。
その店に雇われた掃除婦なのか物乞いなのかは知らぬが、垢にまみれた着物を着た白髪の老婆が店の前にいた。
ただ居ただけではない。タロを抱きしめ、しきりとタスケと呼んでいる。
佐助のほかに体を触らせることのないタロが、ちぎれんばかりに尾を振り身体を預け抱きしめられている。
佐助は目を疑った。
そして、驚きと若干の嫉妬から、その老婆にすこし強く問いただした。
「おばばよ。この犬はタロという。俺の大事な相棒だ。おばばの知った犬に似ているかも知らぬが、タスケではない、軽々しく声をかけないでもらおうか」
その老婆は、一瞬言葉を失ったようだった。
「あなた様は、もしや佐助様でおられるか? なんと、なんとタスケ様は…」
そういうと、次の言葉を失ってしまった。
佐助は、この老婆が自分の名を知っていたことに驚きを隠せない。
「お前は何故俺の名前を知っている!」
そう詰め寄ると老婆のたるんだ目尻からは涙があふれ、タロが心なしか老婆をかばうそぶりをする。
一体何が起きている! 佐助の動揺が頂点に達する直前に、その老婆がゆっくりと語り始めた。
佐助様。
あなたは初めて聞く話ですよ。けれど、しっかり聞いてほしいのです。
じさまは、弥助と申しましたね。
ご存じでしたか?
じさまは、山の娘を娶ったのです。もちろん、人間ですよ。
でも、親を亡くし山に迷い込み、山の神に生きることを許された娘でした。
弥助は身分こそ侍でありましたが、生まれも育ちも山の中。どこか人の世を疎ましく思っておりました。
そのような男が、川の淵で身を清める山の娘に出会ったのです。それは、きっと山の神のご配慮でもあったことでしょう。
弥助と山の娘は自然に結ばれ、一人の娘を設けました。
佐助様。
それが、私です。私があなたの母なのでございます。
老婆は、見難い容姿でありながら、どこか気高く微笑んだ。
だからどうこうという話ではありません。
私は、ただただ私のことより、タスケ様を知って欲しい。
そして、あなたがどのように生まれたかを伝える機会が、ただ一度だけ与えられたことを理解しました。だから、神のみ心のままにお伝えしたい。
今後についてはあなた様の人生です、ご自分でお考えいただければそれでよい。
このタスケ様と今生で今一度お会いできたことにも。山の神の深き愛情を感じずにはいられません。
タスケ様は、父弥助を慕ってくれた里のものでございました。山の神に愛され山に生きた父弥助のように生きたいと、里を捨てて山を住処と定めてくださったのです。
タスケ様と私が気持ちを通わせるのに深い理由はありませんでした。自然と子をなしました。
佐助様。それがあなたでございますよ。
ただ、二人の間で決定的に違ったのが、ひとへの想いでありました。
山が荒れ鉄砲水が出た時に、山の娘の私はほおっておけばよいと思いました。
この手に抱く我が子が健やかに眠れることが一番だったのです。
しかし、タスケ様は違いました。
我が子とおなじ年頃の赤ん坊が里にはたくさんいる。
この鉄砲水は、山を下るにつれ土砂と草木を巻き込み里の家すら流すだろう。我が子を亡くす辛さは我らも里の者もかわらぬものよ。
我らの子は神のご加護で安泰だから、我の心は安らかだ。
ただ、あの里の子らをできれば助けたいと思うのだ。
そして、タスケ様は水場へ向かい、行方不明となってしまったのでございます。
それからというもの、わたしは父弥助の助けを借りながら、そして神のご加護に守られながらあなたを育てておりました。
タスケ様がいなくなり、心寂しくはありましたけれど、あなたの笑顔を支えに過ごしていたのでございますよ。
そして、あの日。里へ下りたあの日。
山の神のご加護が薄くなるあの里で、かどわかされたのです。
正しく言えばかどわかされそうになったのです。
その折、大きな荒々しい犬が下手人の行動を遮りました。
神のご加護を無下にした罪として獣の姿に身をやつしてはおりましたが、私のたいせつなたいせつなタスケ様が私を助けてくださったのです。
わたしは、タスケ様の主である身分高きおなごに気に入られ、身を汚すことからは守られました。これもまた、タスケ様の強さ美しさが助けてくれたことにございます。
しかし、山へ帰ることはかなわず、同じ屋敷に住まっていたタスケ様もいつの日か姿が見えなくなっておりました。
再びタスケ様を失った私の喪失感は一度もよりも大きなものでした。この後、どのように生きるかと思い悩んだほどにございます。
けれど、タスケ様は、父弥助を失くし一人生きねばならぬあなたを見守ることにされたのですね。
出来れば、母もあなたの成長を傍で見ていたかった。
父弥助を看取ることもしたかった。
全ては過去のこととなってしまいましたけれど、二度とまみえることは無いと思っていたタスケ様に佐助様、ここに家族がそろったことをありがたく思わずにいられましょうか。
全ては、山の神のご加護の下にあるのでございましょう。
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