第20話 夢


北の旧交易路・廃倉庫



風が途絶えた夜だった。

北の旧交易路は、霜を帯びた石畳が月の光を鈍く返している。

 かつて王国と北方を結んだその道の端、使われなくなった倉庫がひとつ。

 木扉の隙間から、薄い明かりが漏れていた。


 中には二つの影があった。


 一人は若い下級貴族。

 王都の服装をしてはいるが、外套の裾には旅の埃がついている。

 もう一人は灰衣の男――地下組織影の帳の末端構成員。

 影のような目をした男は、貴族を見下ろすように立っていた。


 貴族は震える指で、小さな包みを差し出した。

 「これを……“護符”と呼ばれている。森の北端、大渓谷へ落ち込む岩棚の手前に埋めろ。

 夜明け前に終わらせろ――それが命だ。」


 男は無言で包みを開いた。

 中には、紫の光を内に宿す結晶――魔水晶。

 淡い光が揺れるたび、倉庫の壁に映る影が脈を打つように動いた。


 「……護符、ね。」

 灰衣の男の唇がわずかに歪む。

 「こういうものは、大抵“守る”より“呼ぶ”方が得意だ。上の連中は、それを知ってるのか?」


 貴族は答えなかった。

 その沈黙を誤魔化すように、もう一つの小瓶を取り出す。

 瓶の中では、黒い種が一粒、液の中で鈍く光っていた。


 「設置が済んだら、これを飲め。理の気配を鎮める薬だ。

 魔獣に悟られずに戻れる。」


 灰衣の男は瓶を受け取り、光にかざす。

 「理を鎮める、ね。……どうやら俺の命も一緒に鎮まるかもしれんな。」

 そう言って、薄く笑った。


 貴族はその笑みに耐えきれず、目を伏せた。

 「……聞かないでくれ。私は命令を伝えるだけだ。誰のものかも、聞いてはいけないと言われている。」


 「そうか。」

 男は短く答え、包みと瓶を懐にしまった。

 外套の下から、金属の擦れる音が小さく響く。

 「理が静まる時というのはな、決まって何かが死ぬ時だ。――まあいい。」


 彼は踵を返した。

 木扉の方へ歩き出す足音が、霜の上に乾いた響きを残す。

 扉を押し開けると、外気が流れ込んだ。冷たく澄んだ夜気に、薄く土と鉄の匂いが混じる。


 男は一歩、外へ出た。

 倉庫の外では森の影が広がっている。北の空には、月の輪郭が霞んでいた。

 灰衣の裾が風に揺れ、彼の姿が闇の中に溶けていく。


 去り際、振り返りもせずに呟く。


 「理は沈黙のうちに在る。――それを破るのは、いつも人間だ。」


 扉が軋んで閉じた。

 残された貴族は、ただ立ち尽くしていた。

 手のひらにはまだ、魔水晶を渡したときの冷たさが残っている。

 その冷気は皮膚を越えて、胸の奥へと沈み込んでいった。


 外では、夜明けの兆しがゆっくりと空を染め始める。

 遠くで、風が渓谷の方へ流れた。

 その風の底に、誰も気づかぬ微かな音――

 理の層が、一度だけ息をしたような、鈴のような響きがあった。




黎武館 北庭




竹の葉が擦れ合う音が、朝の風に溶けていた。

黎明の光はまだ弱く、霧を透かして青白い。

黎武館北庭の竹林――王城の外縁にひっそりと設けられた訓練の庭。

そこに立つのは二つの影。ラグナと、白銀の髪を揺らす老騎士エルンスト・ガルディア。


剣が交わる音が一閃。

木剣同士が打ち合わされ、乾いた音が竹林に響いた。

ラグナは息を吐き、低く踏み込み、正中線を意識して打ち返す。

エルンストの動きは静かだったが、隙はない。

彼の剣はまるで風のように、押すでもなく、ただ流れて受ける。


「理に囚われるな。理を通せ。」

エルンストの声が短く響く。


ラグナは木剣を下段に構え、体をひねった。

次の瞬間、砂を蹴る。斜めに振り上げた一撃が竹を鳴らすほどの勢いで走った。

老騎士は身をかわし、杖のような木剣で滑らかに受け流す。

木と木が擦れ、かすかな火花のような光が散った。


その時――竹林の奥から足音。

数人分の足並みが揃って、こちらへ近づいてくる。

エルンストが動きを止め、目を細めた。

ラグナも構えを解く。霧の向こう、青白い光の中を抜けてくる影。


先頭に近衛騎士団長、そしてその背後に白衣を纏った青年。

王子カイエル・エルディアンだった。


ラグナは驚いて息を止めた。

朝の静寂が一瞬にして張り詰める。

近衛たちが竹の間に散り、空気の流れが変わる。


「殿下……?」


カイエルが軽く頷いた。

「続けてくれ。今日は、俺も共に理を確かめたい。」


エルンストが杖を突き、わずかに下がった。

「構えを取れ、ラグナ。王子殿下と剣を交える機会はそう多くはない。」


カイエルは木剣を抜き、静かに言う。

「遠慮はいらない。剣は語るものだ。

理の響きを、互いに確かめよう。」


ラグナは深く息を吸った。

掌に理の気配が集まる。体の奥で心臓が鳴る。

竹の葉が音もなく揺れ、霧の粒が光を帯びる。


最初の一歩は、カイエルからだった。

踏み込みが鋭い。風を切る音と同時に剣が走る。

ラグナは反射的に受ける。木剣がぶつかり、砂が舞い上がった。

衝撃が腕に伝わり、体が押し返される。

重い――王家の剣は、理を通した力を持っている。


「悪くない反応だ。」

カイエルが笑う。


次の瞬間、彼は間合いを詰めた。

下段からの突き、返して上段。

ラグナはそれを身を捻ってかわし、滑り込むように横薙ぎを放つ。

木剣が空気を裂き、竹の葉が散った。

だが、カイエルの剣がその軌跡を正確に受け止めた。


刹那、青白い光が弾ける。

剣と剣の交差点から理光が迸り、竹林を照らす。

理の響き――鈴のような微音が一瞬だけ鳴った。


「感じるか?」

カイエルの声が静かに響く。


「……はい。理が、応えている。」

ラグナは息を荒げながら答える。

掌が熱を帯び、木剣の表面に微細な光が走った。


カイエルが踏み込み、打ち下ろす。

ラグナは後退しながら受け流し、返す刃で逆袈裟に斬り上げた。

風が唸る。

二人の足が砂を蹴り、竹の影が交錯する。

理光が剣の軌跡に沿って幾筋も走り、青い残光を残した。


一撃、二撃、三撃――

連続の応酬が竹林の空気を震わせた。

息の音、足の擦れる砂の音、そして理の鈴音。

そのすべてが一つのリズムに重なっていく。


ラグナはカイエルの動きを読み、思考より先に体が動いた。

理が導くままに剣を振る。

空間の線を断ち、流れを繋ぎ、打ち込み、受け流す。

そのたびに青光が爆ぜ、竹の幹が淡く照らされる。


「そこだ!」

カイエルが声を放ち、上段から強く打ち下ろした。

ラグナは両手で受け止め、全身で衝撃を殺す。

地面の砂が震え、理光が爆ぜた。


次の瞬間、二人の剣が止まった。

空気が静まり返る。

竹林の奥で、ただ一枚の葉が落ちる音。


エルンストがゆっくりと杖を突き、近づいた。

「……良い。理が、確かに剣を通して語っていた。」

老騎士の声は低く響き、二人の間の静寂を締める。


カイエルが息を整え、剣を下ろした。

「理に頼らず、理と共に在る――それがお前の剣か。」


ラグナはうなずいた。

手の中の熱が、まだ脈打っている。

「はい。まだ未熟ですが……理は確かに、応えてくれました。」


カイエルが小さく微笑む。

「ならば、その剣を磨け。理は意志にしか応えない。」


エルンストが静かに頷いた。

「本日の稽古はここまでだ。」


ラグナは木剣を下げ、深く一礼した。

竹林の奥で鈴のような音が再び鳴り、

理の層が静かに息づいた。


カイエルは体を解す様に肩を軽く回す。

砂の上には、二人の剣が描いた無数の足跡と、理光が走った痕跡がまだ淡く残っていた。


エルンストが一歩前に出て、杖を突く。

「見事でした、殿下。

理が応え、御使がそれを受け止めた。

この光景を、神殿の者たちにも見せてやりたいものですな。」


カイエルは苦笑を返した。

「……神殿に見せれば、理層の解析に使われるだけだ。

あれは“人の心”が作り出すものだと、あの学者たちは忘れている。」


「理もまた、心の鏡。ゆえに恐れもするのでしょう。」

エルンストが静かに答える。


ラグナは剣を下げたまま、深く一礼した。

「ありがとうございました。……今の理の響き、忘れません。」

その表情には疲労とともに、確かな充足が宿っている。

カイエルはうなずき、わずかに穏やかな笑みを浮かべた。


「よくやった、ラグナ。

あれほどの剣気の中で理を保てる者は、そう多くない。

……また明日も、ここで。」


そう言い残して背を向け、竹林の出口へと歩き出す。

朝の光が差し込み、白衣の裾を照らす。

風が彼の通り道を作るように竹の葉を揺らした。


そのとき、カイエルの足が止まった。

竹の影の向こう――霧の中に、ふと柔らかな色が見えた。

陽を受けた薄桃の布。


そこにいたのは、イレーネ王女だった。

白衣の上に薄絹を重ね、髪を束ねたまま。

隣には侍女リオラが控え、申し訳なさそうに身をすくめている。


イレーネは兄と目が合うと、わずかに肩をすくめた。

「……おはようございます、お兄様。」

声は静かだが、どこか焦りを隠せない。


カイエルは眉を寄せ、半ば呆れたように息を吐いた。

「……こんな朝早くに、何をしているイレーネ。」


その声には叱責というより、戸惑いと苦笑が混じっていた。

王女が黎武館に現れることなど滅多にない。

しかもこの竹林は、王家の中でも訓練の場――礼儀よりも理が優先される場所。


イレーネは視線を逸らし、竹の葉の揺れる方を見た。

「風が、気になりましたの。

理の流れがこの庭で少し騒いでいたものですから……。」


言葉は柔らかいが、その奥に確かな確信があった。

理の反応を、彼女も感じ取っていたのだ。


カイエルは短くため息をついた。

「……相変わらずだな。神官たちより勘が鋭い。」

目の奥に、兄らしい優しさが一瞬だけ浮かぶ。


リオラがそっと頭を下げた。

「申し訳ございません、殿下。お止めしたのですが……」

「いい。もう来てしまったのなら、風の中を歩いていくといい。」

カイエルはそう言って、僅かに微笑を残した。


そのまま竹林の出口へ向かい、振り返らずに歩き去る。

朝の光が竹の間から差し込み、彼の背を照らす。

理光の残滓が風に溶け、鈴のような微かな音が響いた。


イレーネはその音を聞きながら、静かに呟いた。

「……やはり、理が息づいていました。」


竹林の奥で、理の呼吸が確かに続いている――

そう感じながら、朝の光の中に立ち尽くしていた。


カイエルと近衛たちの姿が竹林の外に消え、

足音が遠ざかると、風が戻ってきた。

竹の葉が鳴り、霧が流れる。

世界が、再び理の呼吸を取り戻したようだった。


ラグナは深く息を吐き、剣を納めた。

戦いの余韻はまだ胸の奥に残っている。

その中に、淡い理の光が溶けて消えていくのを感じた。


「……見事な剣でした。」


振り向くと、竹の影からイレーネが静かに歩み出てきた。

足元の露が光を受け、彼女の衣を淡く染める。

侍女リオラは少し離れた位置で控え、頭を下げたまま。


「王女殿下……」

ラグナは慌てて膝を折りかけたが、イレーネが首を横に振った。


「ここでは、礼はいりません。

……お兄様の剣を見に来たつもりでしたのに、

理が導いたのは、あなたの方だったようです。」


ラグナは言葉を探した。

視線を下げると、砂の上に理光の痕跡がまだ残っている。

自分の足跡の上に、微かな青の粒が浮かんでいた。


「いえ、殿下の前で剣を振るうなど、恐れ多いことです。

けれど――あの瞬間、理が確かに動きました。

誰かに見られているような感覚があって……

その“誰か”が、剣を通して応えた気がします。」


イレーネの瞳が揺れる。

朝の光が瞳に映り込み、理光と重なって煌めいた。

「理は、人の祈りを映します。

あなたの剣には、確かに“願い”が宿っていました。

それは戦うためではなく……守るための光です。」


「守る……」

ラグナはその言葉を繰り返した。

それは、ずっと胸の奥にあった想い。

けれど自分の口で明確に言葉にしたことは、まだなかった。


イレーネは少しだけ微笑んだ。

「理は、あなたを試しているのかもしれません。

けれど、怖れることはありません。

理は厳しくも優しいもの。あなたの心が揺らがない限り、必ず寄り添ってくれます。」


ラグナはその言葉を聞きながら、胸の奥が静かに温まるのを感じた。

朝霧が薄れ、竹の間から光が差し込む。

一筋の理光が二人の間を渡り、淡く消えた。


「……イレーネ殿下。」

「はい?」

「理が応えるというのは……人の意志を信じることなのかもしれません。

“理を従える”のではなく、“共に在る”――

殿下がおっしゃった通りだと、今、少しだけ分かった気がします。」


イレーネの表情がわずかに和らいだ。

「それでいいのです。

理は命のように、あなたと共にあるもの。

その響きを感じられるなら……あなたは、もう迷わないはずです。」


二人の間に風が通る。

竹の葉が揺れ、鈴のような音が響いた。

ラグナがその音に顔を上げると、イレーネはそっと微笑んだ。


「……きっと、この風もあなたを見ているのですね。」


ラグナは何かを言おうとしたが、声にならなかった。

代わりに、胸の奥で理光が静かに明滅した。

その光は言葉よりも確かに、心を結んでいた。


イレーネは一礼し、竹の影へと戻っていく。

リオラが後を追い、薄桃の衣が霧の中に消えた。


ラグナはしばらくその場に立ち尽くし、竹林の音に耳を澄ませていた。

朝の光が完全に差し込み、理光の粒が風に溶けていく。


――剣の響きは、まだ胸の奥で続いていた。



神殿第六層 観環室



静寂の中に、かすかな脈動があった。

それは心臓の鼓動にも似て、しかし生物のものではない――

理そのものが、どこかで息をしているような気配だった。


観環室。

神殿第六層の中央に位置する、理の観測中枢。

天蓋から降りる白光が理核柱を包み、床を走る金の文様に反射して淡い輝きを生んでいる。

その光は常に穏やかで、理層の安定を象徴するものだった。

だが今夜、それはわずかに揺らいでいた。


水晶盤のひとつが震え、青白い光を散らす。

符術管が低い音を鳴らし、空気が震える。

光が走るたびに壁面の文字群が応じ、部屋全体が微細に脈打った。


「……異常反応だ。」

サリウスの声が、響きの底に沈むように低く落ちた。

符術盤を操作しながら、彼は理波を解析する。

盤面に浮かぶ波形は滑らかな周期を崩し、

幾重にも干渉を起こしていた。


「理波の位相が反転しています。……まるで、二つの理が干渉しているような。」


老神官レメゲトンが静かに歩み寄り、杖の先で床の文様を軽く叩いた。

鈍い響きが室内に広がり、理核柱の根が応じる。

青光が柱の中心を貫き、ゆっくりと明滅を始めた。


「理が……息をしておるな。」

その声は祈りのように静かだった。


サリウスは眉をひそめ、視線を盤面に戻す。

「呼吸――? 理層は流れの総体です。

 自律的な律動を示すなど、理論的にはありえません。」


「理論の外で起きることを“理”と呼ぶのだよ。」

レメゲトンは淡く笑い、杖の先を理核柱に向けた。

「三百年前、ゼル=アマディウスが記した観測記録にも同じ震えがあった。

 “理の門が息をした”――そう残されておる。」


サリウスの動きが止まる。

ゼル=アマディウス――神殿史上、ただ一人理の奥を観測した御使。

彼の記録は封印扱いで、閲覧を許されるのは上級神官のごく一部に限られている。


「……ゼルの時代。理門制御の試みの際の記録、ですか。」

「そうだ。」

老神官はゆっくりと頷いた。


「理の門が開かれた時、世界は一度だけ息を止めた。

 そして……再び、息を吹き返した。

 その瞬間、門は脈動を始め、理波は“呼吸”のように動いたという。」


レメゲトンの言葉に合わせるように、理核柱が低く唸った。

光の粒が柱の表面を流れ、ゆるやかに上下する。

まるで大気が吸い込み、吐き出すような運動。

その静かな呼吸が、観環室全体を包み込んだ。


「……再現している。」

サリウスの声に、焦りが滲む。

「理波干渉は王都北域。――王城北庭の理脈線上です。

 御使ラグナの理波に反応して……王家の理が同調している。」


レメゲトンは微かに目を細めた。

「王家の理と御使の理。……古き鍵が再び揃うか。」


サリウスが驚いて顔を上げる。

「古き鍵?」

「ゼルの封印記録にもある。

 門が開くには“二つの理の重なり”が要る、と。」

「それが……王家と、御使。」

「理の両極だ。片方が天を指し、もう片方が地を支える。

 それらが共鳴した時、門は息をする。」


理核柱がさらに明るく脈動し、壁面の文様が淡く光る。

青白い光が二人の顔を照らし、空気がわずかに重くなった。

水晶盤に浮かぶ理波が形を変え、円の中心にひとつの影を結ぶ。


サリウスが息を呑む。

「……これは……誰かの理だ。

 王家でも、御使でもない。」


レメゲトンは言葉を返さなかった。

ただ、柱の奥を見つめる。

そこには、名を持たぬ理の影――

古文書の中で“外の理”と呼ばれた、未知の波形。


「ゼルは記していた。」

老神官の声が静かに響く。

「“外の理が触れた”――と。

 その記録の意味を、今になって思い知る。」


光が収束し、室内が再び静まり返る。

だが理核柱の鼓動だけが、なおも止まらない。


「記録を続けろ、サリウス。」

「はい。」

符術筆が走り、光の軌跡が盤面に記されていく。

老神官は杖を握り直し、低く呟いた。


「理は眠りをやめた。

 ――ゼルの時代以来、再び門が息をしておる。」


その瞬間、理核柱の奥から微かな音が響いた。

風ではなく、水でもない。

人の声にも似て、しかしどこか違う――

まるで、世界の外から届く囁きのようだった。


――まだ、終わっていない。


サリウスの目が見開かれた。

空気が一瞬凍り、光が静かに消える。

二人の間に残ったのは、わずかな理の残響だけだった。


レメゲトンは目を閉じ、祈るように呟く。

「理は再び、外を思い出しつつある……。」


そして、理核柱の光は北の空へと淡く伸びた。

竹林の上、夜の理波と呼応するように。





夜の神殿は、まるで時間が止まったかのように静かだった。

遠くの回廊を照らす灯火魔術の光が、壁の文様を柔らかく撫でている。

炎ではなく、理の式によって制御された光――

温もりはあるのに、煤も匂いも残さない淡い輝き。


ラグナの部屋にも、そんな灯りが一つ揺れていた。

机の上に置かれた灯火珠が、呼吸のように明滅を繰り返している。

彼は詠唱書を開いたまま、腕を枕にしてうたた寝していた。


……夢と現の境が、静かに溶けていく。


耳に、聞き慣れない音が届いた。

一定のリズムを刻む機械音――。

風の音でも、理層の響きでもない。

覚えのある音。

――W.S.S.の、部室の音だった。


視界が開く。


そこは白い蛍光灯に照らされた狭い部屋。

壁一面に貼られたスケジュール表、机の上には資料と紙コップ。

モニターの光が無機質に瞬き、

低いファンの音が絶えず空気を震わせていた。


「……また寝てたの?」


背後から聞こえた声に、ラグナははっとして振り返る。

そこに立っていたのは、一人の少女だった。


薄いパーカーの袖をまくり、

少し乱れた髪を耳にかけながら、笑っている。

手には湯気の立つマグカップ。

どこか懐かしく、けれど名前は思い出せない。


「サーバー動かしたまま寝たでしょ。

 ほら、またファイルが増えてる。」


「……そうか。」

ラグナは苦笑し、頭を掻いた。

少女は軽く肩をすくめ、机の上にマグを置く。


「君、相変わらず考えすぎだね。」

「考えすぎ?」

「うん。理層だの干渉だの、難しいことばっかり。

 世界は、全部を解かなくても動いてるのに。」


ラグナは黙って彼女を見つめた。

蛍光灯の光が、彼女の髪を透かすように照らしている。

その姿が、なぜか眩しく感じた。


「……君は、誰なんだ?」


少女はしばらく沈黙したあと、静かに微笑んだ。


「あなたが作った“観測者の影”。

でも、今はそれで十分。」


「観測者の……影?」

「うん。あなたがこの世界を見続けたかった、その“目”のひとつ。」


ラグナは言葉を失った。

理解は追いつかない。けれど、懐かしさだけが胸を満たす。


少女はそっとラグナの肩に触れた。

その手の温かさが、あまりにも現実的で、彼は息を止めた。


「ねぇ、あなたが笑うと、この世界のデータが少し温かくなるんだよ。」


その瞬間、蛍光灯の光が揺れた。

マグの湯気がほどけ、部室が淡く滲む。

音も光も、すべてが遠のいていく――


……そして、目を覚ました。


灯火珠の光が、まだ机の上で小さく瞬いている。

窓の外には静かな夜気。

神殿の回廊を流れる風が、薄い帳を揺らしていった。


ラグナは掌を見つめた。

そこに、温もりの残滓があった。


「……夢、か。」


静かに息を吐き、

灯火珠を指先でひと撫でして明かりを落とす。

部屋は暗くなったが、不思議と寂しさはなかった。


「わからないままでいい――か。」


微かに笑みを浮かべ、

ラグナは窓の外の夜を見上げた。

灯火の残光が壁に淡く残り、

それがまるで、“彼女の声の余韻”のように揺れていた。



夜の神殿 居室



夜の神殿は、深い静寂に包まれていた。

回廊の灯火魔術がところどころに灯り、

淡い光が白い壁を撫でては消えていく。


ラグナの部屋にも、一つだけ灯火珠が揺れていた。

温かな光が、机に伏した彼の頬を照らしている。

詠唱書の頁が、夜風にめくられる音がした。


――気づけば、眠っていた。


どこか遠くで、一定のリズムを刻む音がする。

風の音ではない。

規則正しい、低い振動。

まるで見たことのない機械が動いているような音。


瞼の裏に、白い光が広がった。


目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。

壁も天井も白く、角ばった机と奇妙な箱のような装置が並んでいる。

空気は乾いていて、淡い光が一面に満ちていた。


机の上には、見たことのない紙の束。

その隣で、小さな灯りが点滅している。

耳元では、低い唸りが絶え間なく響いていた。


「……また寝てたの?」


背後から声がした。

振り返ると、一人の少女が立っていた。


淡い髪を束ね、軽い上着を羽織った姿。

笑っているのに、どこか寂しげで、

それでいて――懐かしいと感じた。


「考えすぎだよ、あなたは。」

「考えすぎ?」

「うん。全部を理解しようとすると、

 世界の方が息苦しくなるんだよ。」


少女は、机の上の器を手に取り、

ラグナの前に湯気の立つ飲み物を置いた。

見たことのない形の器。

なのに、不思議と馴染むような温かさだった。


「君は……誰なんだ?」


少女は小さく笑った。


「あなたが見たものの残響。

でも、それで十分。」


彼女の声が、優しく胸の奥に響いた。


「ねぇ、あなたが笑うと、

この世界が少し温かくなるんだよ。」


ラグナは息を呑んだ。

その瞬間、光が強まり――世界が溶けた。


……静寂。


気がつくと、自分の部屋に戻っていた。

灯火珠の光がまだゆらゆらと揺れ、

机の上の詠唱書が開かれたままになっている。


掌に、確かな温もりが残っていた。


「……夢か。」


小さく呟き、灯火を弱める。

闇が部屋を包んだが、胸の奥にはまだ、

あの光の残滓がやわらかく漂っていた。


「わからないままでいい、か……」


微笑みが零れる。

夜の神殿は静かで、

どこか遠い記憶の余韻が、まだ心の中に灯っていた。


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