第31話:召喚状の重み
市議会からの召喚状は、羊皮紙に正式な印章が押された、手のひらほどの大きさの紙片だった。しかしその重みは、リリアナの肩に鉛のようにのしかかり、彼女の全身を震えさせていた。
午後の陽光が工房の窓から差し込んでいるというのに、室内は氷のように冷たく感じられた。リリアナは作業台の椅子に座ったまま、召喚状を握りしめて身動きひとつできずにいる。
「これはチャンスよ!」
エルミナの明るい声が、重い沈黙を破った。赤毛を揺らしながら、彼女は工房の中を歩き回る。
「考えてみて。街中の人たちが注目する公聴会で、あなたの技術と想いを堂々と語れるのよ。きっと分かってもらえる」
ヴォルフも炉の火を見つめながら、ぶっきらぼうに呟く。
「俺たちがついてる。お前一人じゃない」
二人の励ましの言葉が、空しく宙に消えていく。リリアナの瞳は虚ろで、まるで魂が抜けてしまったかのようだった。
***
街の空気は日に日に重くなっていた。リーフェンブルクの石畳の道を歩けば、人々のひそひそ話が耳に届く。
「あの錬金術師のせいで、火事が…」
「危険な実験をしていたのかもしれない」
「子どもたちに近づけちゃダメよ」
リリアナが市場を通りかかると、会話がぴたりと止まる。視線が刺すように彼女を貫く。いつもなら気軽に声をかけてくれる八百屋の主人も、今日は目をそらした。
パン屋のハンスは、リリアナの姿を見つけると慌てたように店の奥へ引っ込んでしまった。あの温度調整器で、最高のパンを焼けるようになったと喜んでくれていたのに。
「お嬢ちゃん」
宿屋「せせらぎ亭」の女将クララが、そっと声をかけてきた。腰痛を和らげる椅子を作ってもらった、あのクララだった。
「あたしは信じてるからね。あんたが街のために頑張ってるってこと」
その優しい言葉が、かえってリリアナの胸を締めつけた。こんな自分を信じてくれる人たちを、巻き込んでしまった。
***
工房に戻ると、テオが静かに茶を淹れていた。湯気が立ち上る香りは、いつものように穏やかで温かい。
「師匠…」
リリアナの声は、か細く震えていた。
「私、どうしたら…」
初めて吐いた弱音だった。今まで、どんなに辛くても歯を食いしばってきた彼女が、ついに心の内を漏らした。
テオは何も言わず、そっとリリアナの肩に手を置いた。その大きく温かい手は、動揺する彼女の心を少しだけ落ち着かせる。
「君の心に聞くのが一番だ」
師匠の静かな言葉が、工房に響いた。
「外の声に惑わされず、君自身の心の声に耳を傾けなさい。君が本当に大切だと思うものは何か。君が守りたいと願うものは何か」
リリアナは目を閉じた。心の奥深くで、小さな声が聞こえる気がした。
***
その夜、リリアナは一人、工房の窓際に座っていた。街の明かりがちらちらと瞬いている。セレナ川のせせらぎが、静寂を優しく包んでいる。
パン屋のハンス親子の笑顔。宿屋の女将クララの感謝の言葉。花売りの少女リリーの嬉しそうな表情。冒険者たちの称賛の声。そして、エルミナとヴォルフとの出会い。
ひとつひとつの記憶が、リリアナの胸によみがえってくる。
「私が守りたいもの…」
それは、人々の笑顔だった。街の人たちの、ささやかだけれど確かな幸せだった。自分の技術で、誰かを少しでも楽にしてあげたい。困っている人の役に立ちたい。
その想いは、今も変わらず胸の奥で燃え続けている。
召喚状をもう一度見つめた。確かに恐ろしい。自分を糾弾する人々の前に立つことを想像すると、足がすくんでしまう。
でも。
「私の錬金術は、間違っていない」
小さくても、確かな声だった。
リリアナは立ち上がると、工房の棚から一冊の本を取り出した。師匠からもらった、錬金術の基礎を記した古い書物。ページをめくると、最初の頃に書き込んだ拙い文字が目に入る。
『人を笑顔にする錬金術師になりたい』
あの日の決意は、今でも色褪せていない。
「君が本当に大切だと思うものは何か」
師匠の言葉が、再び心に響いた。
大切なもの。それは、この街で出会った人々の幸せ。そして、その幸せを支える自分の技術への誇り。
リリアナは召喚状を胸に抱いた。恐怖は消えない。でも、逃げるわけにはいかない。
自分の信じる道を、最後まで歩き抜こう。
どんな結果が待っていても、自分の選択を後悔しないために。
窓の外で、セレナ川が静かに流れ続けていた。明日への希望を運ぶように。
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