第24話:職人たちの声
朝霧に包まれた職人地区の石畳を、二つの足音が響いていた。リリアナとエルミナは、手に職人たちの工房を記した地図を持ち、新たな挑戦へと向かっている。
「最初は、革細工師のガルヴィンさんのところから回りましょう」
エルミナが地図を指差しながら提案した。
「でも……本当に大丈夫でしょうか」
リリアナの声に不安が滲む。
「急にお邪魔して、『協力してください』なんて言っても、怪しまれるだけかもしれません」
「大丈夫よ。リリーの想いは、きっと伝わる」
エルミナが励ますように肩を叩いた。
「それに、困っているのはアタシたちだけじゃないはず。きっと話を聞いてくれるわ」
***
最初に訪れたのは、職人地区の奥まった路地にある革細工の工房だった。看板には「ガルヴィン工房」と彫られているが、その文字はすっかり色あせている。
「すみません、どなたかいらっしゃいますか?」
エルミナが扉を叩いた。しばらくして、顔にひげを蓄えた壮年の男性が姿を現す。
「何の用だ? うちは注文でいっぱいで……」
ガルヴィンの視線がリリアナの作業着に留まった瞬間、その表情が険しくなった。
「ああ、あんたが例の『クローバー工房』の……」
「はい。リリアナ・エルンフェルトと申します」
リリアナが丁寧に頭を下げたが、ガルヴィンの警戒心は解けない。
「で、何の用だ? まさか、うちの客を取りに来たんじゃあるまいな」
「違います!」
リリアナが慌てて首を振った。
「私たちは、お願いがあって……いえ、まずはお話を聞かせていただきたくて」
「話?」
ガルヴィンが眉をひそめる。
「新参者が、何を聞くって言うんだ」
その冷たい言葉に、リリアナは思わず身を縮めた。しかし、師匠の教えを思い出し、勇気を振り絞る。
「お仕事のこと、そして……困っていることがあれば、教えていただきたいのです」
***
ガルヴィンは最初、明らかに迷惑そうな顔をしていた。しかし、リリアナが彼の作業を見つめる真剣な眼差しに、少しずつ心を開き始める。
「……最近は、良い革が手に入りにくくてな」
ついに口を開いたガルヴィンの声には、深いため息が混じっていた。
「昔なら、街の外の牧場から直接仕入れることもできたんだが、今はギルドを通さないと質の良い素材は回してもらえない」
「ギルドを……?」
「革細工師ギルドってやつがあるんだ。そこに加盟すれば良い素材も回してもらえるが、毎月の会費がばかにならない。それに……」
ガルヴィンが作業台の古い道具を見つめた。
「あいつらは大量生産ばかり重視する。一つ一つ丁寧に作る、俺たちみたいな小さな工房は邪魔者扱いだ」
リリアナは彼の話を、一言も聞き逃すまいと集中していた。これは師匠の「第五の指針」──まず相手の心を聞くこと──の実践だった。
「他にも、何か困っていることは……?」
「そうだな……」
ガルヴィンが手を止めた。
「革を縫う時の針穴が、最近よく見えなくてな。歳のせいかもしれんが、細かい作業がきつくなってきた」
その時、リリアナの瞳が輝いた。
「それでしたら……もしかすると、お手伝いできるかもしれません」
「何?」
「針穴を照らす小さな光の道具とか、針の通り道を示してくれるような……」
リリアナが身を乗り出すと、ガルヴィンの表情が変わった。
「そんなことが、できるのか?」
「はい! それに……」
リリアナが深呼吸をする。
「見返りはいりません。ガルヴィンさんのお仕事が楽になるのが、私の喜びですから」
***
その後、二人は織物職人のマルタの工房、木工師のハインリヒの作業場と次々に訪れた。どの職人も最初は警戒していたが、リリアナの純粋な関心と、相手の話に耳を傾ける姿勢に、徐々に心を開いていった。
「糸が絡まりやすくて、作業が遅れがちなんです」
「木材の反りを直すのに、いつも苦労していてな」
「原料の仕入れが、思うようにいかなくて……」
それぞれが抱える悩みは様々だったが、共通点もあった。
大きなギルドの支配に苦しみ、小規模な工房ゆえの困難を抱え、それでも誇りを持って仕事を続けている人々。
リリアナは一人ひとりの話を真剣に聞き、そのたびに「私にできることがあれば」と申し出た。
***
夕方近く、二人は職人地区の外れにある古い織物工房を訪れた。そこで働いているのは、エルザという白髪の老女だった。
「あなたが、噂の錬金術師さんね」
エルザは細い指で糸を紡ぎながら、優しい声で話しかけた。
「お噂は聞いています。人を幸せにする道具を作る、素晴らしい方だと」
「ありがとうございます。でも、私はまだまだ……」
「謙遜しなさんな」
エルザが微笑む。
「今日、ガルヴィンさんのところに寄ったでしょう? 彼から連絡があったのよ。『変わった娘が来た。話を聞いてくれて、道具まで作ってくれるって言うんだ』って」
リリアナとエルミナは顔を見合わせた。
「もう、お話が……?」
「職人同士の横のつながりは、思っているより強いものよ」
エルザの手が一瞬止まった。
「特に、困った時はね」
***
「実は……」
エルザが糸車から顔を上げた。その瞳に、深い悩みの影が宿っている。
「私にも、お願いがあるの。でも、これは他の人たちとは少し違う、難しいお願いかもしれない」
「どのような?」
リリアナが身を乗り出す。
「私の目は、もう昔のようには見えない。複雑な模様を織るのが、とても辛くなってきたの」
エルザの声が震えていた。
「でも、私にはどうしても完成させたい作品があるの。亡くなった夫との思い出の……最後の作品を」
彼女の手が、作業台の上の設計図に触れた。そこには、息を呑むほど美しく、そして信じられないほど複雑な模様が描かれている。
「これを織り上げることができれば……私も安心して、この仕事を若い人に譲ることができる」
エルザの瞳に、涙が光った。
「もし、もしも……あなたの技術で、私の目を助けてくれるような道具を作ることができるなら……」
リリアナは一瞬言葉を失った。
それは、単なる便利道具の制作ではない。一人の職人の人生最後の願いを叶える、重い責任を伴う依頼だった。
しかし、その時リリアナの胸に湧き上がったのは恐れではなく、強い決意だった。
「お引き受けします」
彼女の声は、これまでになく力強かった。
「エルザさんの最後の作品を、必ず完成させましょう」
夕日が工房の窓を照らし、三人の影を長く伸ばしていた。
小さな錬金術師の純粋な想いが、職人たちの心を一つずつ繋いでいく。
そして、それは間もなく、街全体を変える大きな力となっていくのだった。
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