第14話:絆のコンパス
夜明け前の工房は、静寂に包まれていた。リリアナは作業台の前に座り、設計図を最後に見直している。昨夜遅くまでかけて完成させた『絆のコンパス』の詳細な図面には、これまでの魔道具とは比較にならないほど複雑な構造が描かれていた。
「本当にこれで大丈夫なのか?」
ヴォルフが心配そうに尋ねる。彼もまた、一睡もしていなかった。夜通し、コンパスの金属部分を精密に加工し続けていたのだ。
「理論的には問題ありません」
リリアナは頷くが、その表情には不安の色が濃い。今回の錬成は、これまでのどの魔道具よりも格段に高度なものだった。単に物質の性質を変化させるだけでなく、複数の個体間で『共鳴』を起こさせ、さらに使用者の感情状態を読み取って反応を変化させる必要がある。
「でも、実際にやってみないことには分からない部分が多すぎます」
エルミナが淹れてくれたお茶の湯気が、朝の光に踊っている。
「三つ一組のコンパスが、互いに微弱な共鳴を保ちながら、危険を察知した時だけ強い光と音を発する…」
リリアナは設計図を指でなぞりながら呟く。
「一番難しいのは、『仲間を想う心』をマナに変換する部分です」
これこそが『情の錬金術』の核心だった。『理の錬金術』であれば、決められた手順に従って物質を変化させればよい。しかし、今回は錬成者の感情そのものが、魔道具の性能を左右することになる。
***
「準備はできたか?」
テオが工房に入ってくる。師匠の表情は普段より真剣で、どこか緊張している様子が見て取れた。
「はい」
リリアナは深呼吸をして立ち上がる。作業台の上には、ヴォルフが心を込めて加工した三つの金属フレームが置かれている。それぞれに、父親の遺品である貴重な素材が組み込まれていた。
雷鳥の羽根は、コンパスの針の部分に編み込まれている。地竜の鱗は、外装に細かく砕いて混ぜ込まれた。月光石の粉末は、共鳴の媒体として中央部に配置される。
「では、始めよう」
リリアナは最初のコンパスを手に取る。その瞬間、彼女の手に微かな暖かさが伝わってきた。ヴォルフの想いと、彼の父親の想いが、金属を通して語りかけてくるようだった。
リリアナは目を閉じ、精神を集中させる。マナの流れを感じ取り、素材の『声』に耳を傾ける。
「錬成開始」
彼女の手から、淡い光が立ち上った。
最初のうちは順調だった。雷鳥の羽根が僅かに光り、地竜の鱗が虹色に輝く。月光石の粉末は、まるで星屑のように美しく瞬いていた。
しかし、三つのコンパスを『繋ぐ』段階に入ると、急激に難易度が上がった。
「くっ…」
リリアナの額に汗が浮かぶ。三つの個体を同時に制御し、それらの間に見えない糸を張り巡らせるような作業は、想像以上に困難だった。
一つ目と二つ目のコンパスが微弱な共鳴を始める。しかし、三つ目を追加しようとした瞬間、バランスが崩れて共鳴が乱れた。
「だめ…また失敗」
リリアナは一度手を止める。すでに二時間が経過していた。
***
「無理をするな」テオが心配そうに声をかける。「一日で完成させる必要はない」
「でも…」
リリアナは悔しそうに唇を噛む。ローガンは一週間後には森への斥候任務を予定している。それまでに完成させなければ、冒険者たちの安全に関わるのだ。
「リリアナ」ヴォルフが口を開く。「俺も手伝わせてくれ」
「え?」
「錬金術はできないが、金属の扱いなら任せろ。お前が錬成に集中している間、俺が三つのコンパスの金属部分を安定させてやる」
リリアナの目が輝いた。確かに、物理的な安定化を別の人に任せることができれば、彼女はより錬成に集中できる。
「私も何か手伝えることがあるはず」エルミナも前に出る。「魔法はできないけど、商人として培った集中力くらいは提供できるわ」
テオが穏やかに微笑む。
「『力を合わせ、新たな価値を生む』…これも大切な指針の一つですな」
リリアナは仲間たちの顔を見回した。一人では不可能なことも、みんなで力を合わせれば乗り越えられる。それが、彼女がこの街で学んだ最も大切なことの一つだった。
「ありがとうございます。お願いします」
***
再開された錬成は、明らかに前回とは違っていた。ヴォルフが三つのコンパスを適切な位置に固定し、微細な振動を抑制する。エルミナは錬成に必要な補助材料を的確なタイミングで手渡す。テオは全体を見守り、危険な兆候があれば即座に止めるよう構えている。
リリアナは今度こそ、純粋に錬成だけに集中することができた。
一つ目と二つ目のコンパスが共鳴を始める。今度は安定している。三つ目を慎重に加える。
しかし、最も困難な段階が待っていた。『共鳴の絆』を確立させるためには、リリアナ自身が『仲間を想う心』をマナに変換し、それを三つのコンパスに注ぎ込まなければならない。
リリアナは心の中で、これまで出会った人々の顔を思い浮かべた。パン屋のハンス親子。宿屋のクララ。車椅子の花売りリリー。冒険者ギルドの厳しいローガン。そして、隣で支えてくれているエルミナとヴォルフ。遠くから見守ってくれているテオ。
その一人一人への想い、感謝、愛情が、彼女の中で暖かな力となって湧き上がってくる。
「これが…『情の錬金術』の力」
リリアナの全身から、今までにない強い光が溢れ出した。その光は三つのコンパスを包み込み、それらの間に目に見えない絆を結んでいく。
しかし、あまりにも多くのマナを消費していた。リリアナの意識が朦朧としてくる。
「リリアナ!」
エルミナの声が遠くに聞こえる。
もう少し…あともう少しで…
リリアナは最後の力を振り絞った。仲間たちのため、冒険者たちのため、そして自分の錬金術への信念のために。
その瞬間、三つのコンパスが同時に温かな光を放った。光は脈動し、まるで心臓の鼓動のように規則正しく明滅する。そして、互いに呼応するかのように、三つの光が微妙にタイミングをずらしながら輝いていた。
「成功した…」
リリアナはその言葉を呟くと、力尽きたように作業台に突っ伏した。
***
「お疲れ様」
気がつくと、リリアナは工房の奥にある小さなベッドに横たわっていた。エルミナが濡れタオルで額を冷やしてくれている。
「どのくらい眠っていたんでしょうか」
「半日ほどだな」ヴォルフが椅子に座ったまま答える。「すげえマナの消費量だったぞ。テオ殿も心配してた」
リリアナは慌てて身を起こそうとして、めまいを覚えた。
「コンパスは…」
「大成功よ」エルミナが嬉しそうに笑う。「三つとも完璧に共鳴してるわ。ヴォルフが一つ持って工房の外に出ても、残りの二つがちゃんと反応するの」
ヴォルフが作業台から一つのコンパスを持ってくる。手のひらサイズの美しい装置は、確かに微かな光を放ちながら、規則正しく脈動していた。
「これが『絆のコンパス』…」
リリアナは感動で胸がいっぱいになった。自分の手で、自分の想いで、仲間たちの協力で作り上げた奇跡の装置。
「明日、ローガンに届けよう」テオが満足そうに頷く。「きっと驚くでしょうな」
その時、コンパスがより強く光った。まるで、リリアナの喜びに共鳴しているかのように。
夕暮れの工房で、四人は静かに微笑み合った。これまでで最も困難だった錬成を乗り越え、真の意味での『絆』の大切さを学んだ一日だった。
そして、リリアナは改めて実感していた。一人では決してできなかったこの奇跡も、仲間と力を合わせれば必ず実現できる。それこそが、『情の錬金術』の真髄なのだと。
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