第11話:物知り老人と古代の噂

 秋の陽がやわらかく差し込む工房で、リリアナは一枚の依頼書を前に困り果てていた。

「『月光草』と『星の露』…どちらも聞いたことのない薬草ね」

 エルミナが依頼書を覗き込みながら首を振る。依頼主は商人地区の薬草商で、持病の関節痛に効く軟膏を作るための魔道具を求めていた。しかし、リリアナの手持ちの薬草図鑑には、これらの薬草は載っていない。

「師匠に聞いてみましょうか」

「テオ殿は昨日から王都の商人ギルドに出かけておられる。明後日まで戻らん」

 ヴォルフが鍛冶場から顔を出して言った。リリアナの表情が曇る。

「うーん、それなら市立図書館はどうかしら?」エルミナが提案する。「古い薬草の文献とかもありそうじゃない?」

 *** 

 リーフェンブルクの市立図書館は、居住地区の小高い丘に建つ荘厳な石造りの建物だった。高い尖塔を持つその外観は、まるで小さな大聖堂のようで、リリアナは思わず足を止めた。

「すごい…こんなに大きいなんて」

 重厚な木製の扉を押し開くと、静寂に包まれた館内が広がる。天井は高く、色とりどりのステンドグラスから差し込む光が、無数の書架を幻想的に照らし出していた。古い羊皮紙とインクの香りが鼻をくすぐる。

 これまで工房と商業地区しか知らなかったリリアナにとって、この知識の宮殿は驚きの連続だった。書架という書架に隙間なく並ぶ書物の背表紙が、まるで宝石のように輝いて見える。

「あの…薬草について調べたいのですが」

 リリアナは受付らしき机に近づき、小さな声で話しかけた。

 机の向こうから顔を上げたのは、長い金髪を後ろで束ねた青年だった。切れ長の瞳と尖った耳が、彼がエルフであることを物語っている。年の頃は人間でいえば二十代前半といったところか。しかし、その表情は冷ややかで、リリアナを見る目には明らかな警戒の色があった。

「エリオット・シルヴァンスです」青年は事務的に名乗る。「薬草、ですか。何の目的で?」

「あの、えっと…」

 リリアナは緊張で声が震える。エリオットの鋭い視線が、まるで彼女の心の内を探っているようで居心地が悪い。

「まさか、怪しげな薬でも作ろうというのではないでしょうね」

 エリオットの声には疑念が込められていた。

「違います!」リリアナは慌てて首を振る。「お客様の関節痛を和らげる軟膏のための魔道具を…その材料となる薬草について調べたくて」

「魔道具?」エリオットの眉がさらに険しくなる。「最近、街で粗悪な魔道具による事故が起きていると聞きます。あなたもその手の怪しげな商売に関わっているのですか」

 リリアナの顔が青ざめる。きっと金獅子商会の模倣品のことを指しているのだろう。

「私は、人を幸せにしたくて錬金術を…」

「綺麗事を」エリオットは鼻で笑う。「帰ってください。我々の貴重な資料を、営利目的で汚されるのは御免です」

 リリアナは呼吸が浅くなるのを感じた。またダメだった。また、人に拒絶された。

 しかし、その時ふと師匠の言葉が脳裏によぎる。

『まず相手の心を聞く。相手がなぜそう言うのか、その裏にある想いを理解しようと努めることだ』

 リリアナはエリオットの表情をよく見つめた。確かに警戒している。でも、その奥には…悲しみのような、何かを守ろうとするような色があった。

「あの」リリアナは勇気を振り絞る。「司書さんは、この図書館を大切に思われているんですね」

 エリオットの表情が微かに動いた。

「薬草についても、とても詳しそうです。きっと、長い間勉強されてきたのでしょう」

「…何が言いたいのですか」

「私も、知りたいんです」リリアナの声に、純粋な響きが宿る。「薬草のこと。それがどんな力を持っていて、どうやって人を癒すのか。お金のためじゃなくて、本当に知りたいんです」

 エリオットは黙って彼女を見つめていた。

「『月光草』と『星の露』」リリアナは続ける。「どちらも美しい名前ですね。きっと、昔の人がその薬草を愛でて付けた名前なのでしょう。そんな薬草の力を借りて、痛みに苦しむ人を楽にしてあげられたら…」

 長い沈黙が流れた。やがて、エリオットが小さくため息をついた。

「…三日前にも、粗悪な魔道具の事故がありました」彼の声は静かだった。「老人が火傷を負った。商人たちは利益しか考えない。だから、私は…」

「司書さんも、人が傷つくのを見るのが辛いんですね」

 エリオットの瞳に、驚きの色が浮かんだ。

 *** 

「こちらです」

 エリオットは立ち上がると、図書館の奥へとリリアナを案内した。そこは薬草学の専門書が並ぶ一角で、古めかしい装丁の書物が厳かな雰囲気を醸し出している。

「『月光草』は正式には『ルナリア・セラピカ』。夜間にのみ花を咲かせる珍しい薬草です」

 エリオットは慣れた手つきで一冊の古書を取り出す。

「『星の露』は『ステライト・デュー』。これは薬草そのものではなく、特定の時期に高山植物の葉に宿る露のことですね」

 リリアナは目を輝かせながら、エリオットの説明に聞き入った。彼の知識の深さと、薬草について語る時の表情の変化に気づく。本当は、彼も薬草が好きなのだ。

「すごいです!どうしてそんなにお詳しいんですか?」

「…私の祖母が薬草師でした」エリオットは少し照れたように答える。「幼い頃から教わっていたので」

 リリアナは丁寧にメモを取りながら、薬草の特性や効能について学んでいく。エリオットの説明は的確で分かりやすく、彼が本当に薬草を愛していることが伝わってきた。

「ありがとうございます。これで依頼主の方を助けられそうです」

 リリアナが感謝を込めて頭を下げると、エリオットは複雑な表情を見せた。

「その…先ほどは失礼しました。あなたの気持ちを理解せずに」

「いえ、司書さんが図書館を大切に思われているからこそですもの」

 エリオットが薬草書を書架に戻そうとした時、隣にあった古い地理書がバランスを崩して落ちた。リリアナが慌てて拾い上げると、開いたページに見覚えのある地図が描かれていた。

「あ、これは…」

 それはリーフェンブルクの街の地図だったが、現在とは明らかに違っている。建物の配置も道の形も、どこか古風で、地図の隅には見たことのない複雑な図形が描き込まれていた。

「これは何の地図でしょうか」

 エリオットが地図を覗き込むと、その表情が興味深そうに変わった。

「ああ、これは三百年ほど前のリーフェンブルクの地図ですね。街がまだ小さかった頃の」

「この図形は?」

 リリアナが指差したのは、現在の職人地区のあたりに描かれた、幾何学的な模様だった。

「さあ…」エリオットは首をひねる。「しかし、似たような図形を他の古文書でも見たことがあります。確か、錬金術に関する文献だったような」

 リリアナの心臓が早鐘を打った。

「錬金術…ですか?」

「ええ」エリオットは声を潜める。「実は、与太話ですが、この街の地下には古代の錬金術工房が眠っているという噂があるんです」

「古代の工房…」

「昔、まだこの街が小さな集落だった頃、とても優れた錬金術師がいたという言い伝えがありましてね。その人物が地下に巨大な工房を建設し、後の時代に封印されたという話です」

 リリアナは地図を食い入るように見つめた。師匠が時折見せる、遠くを見つめるような表情を思い出す。テオは何か知っているのではないだろうか。

「もちろん、単なる伝説だと思いますが」エリオットは苦笑いを浮かべる。「しかし、この街の古い家の地下室から、時々不思議な石碑や装置の欠片が見つかるという話もあります」

 リリアナは胸の奥で何かがざわめくのを感じた。それは好奇心とも、使命感とも違う、もっと根源的な何かだった。

 *** 

 工房に戻ったリリアナは、薬草の資料を整理しながらも、頭の中は古代の錬金術工房のことでいっぱいだった。

「どうしたの?上の空ね」

 エルミナが心配そうに声をかける。

「あ、えっと…図書館で面白いお話を聞いて」

 リリアナは古い地図のことを話した。エルミナとヴォルフは興味深そうに聞き入ったが、同時にどこか懐疑的な表情も見せる。

「まあ、そういう伝説はどこにでもあるものよ」エルミナが肩をすくめる。「リーフェンブルクにも『隠された宝』の話は山ほどあるし」

「そうだな」ヴォルフも頷く。「俺たちの仕事は今ある依頼をきちんとこなすことだ」

 確かにその通りだった。しかし、リリアナの心の奥では、何か大切なものが眠っているような気がしてならなかった。

 その夜、リリアナは工房の窓から夜空を見上げた。星々が静かに瞬いている。もしも本当に、この街の地下に古代の錬金術師の遺産が眠っているとしたら…。

 彼女は薬草の資料を胸に抱きながら、古代への想いを馳せていた。エリオットから得た薬草の知識は確かに貴重だったが、それ以上に、この街に秘められた歴史の深さを知ったことの意味は大きかった。

 師匠が帰ってきたら、この話をしてみよう。きっと何か知っているはずだ。

 秋の夜風が工房の窓を優しく撫でていく。リリアナの胸に、新たな探求心の種が静かに芽吹いていた。

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