第3話:初めての依頼とパンの香り
リーフェンブルクの朝は、パンの香りで始まる。
リリアナが『錬金術基礎理論』のページをめくっていると、隣のパン屋から漂ってくる小麦の甘い匂いが、工房を優しく包んでいた。師匠のテオは作業台で薬草を調合しており、工房には平和な静寂が流れている。
弟子入りして一週間。リリアナは毎朝、掃除の後に錬金術の勉強に励むようになっていた。もう誰かの許可を待つことはない。自分の意志で学び、自分の意志で行動する。師匠の第一の指針は、すでに彼女の心に根付き始めていた。
「マナの性質について……」
リリアナは小さく呟きながら、難解な理論に取り組んでいる。マナとは錬金術の力の源泉であり、術者の精神力と結びついた微細なエネルギーのことだ。これを理解しなければ、魔道具を作ることはできない。
その時、隣から聞こえてきたのは、苛立ちに満ちた男性の声だった。
「くそっ、また焦がしてしまった!」
続いて、何かを床に叩きつけるような音が響く。
リリアナは本から顔を上げた。テオも手を止めて、心配そうに窓の方を見ている。
「お父さん、そんなに自分を責めないで……」
今度は若い女性の声が聞こえてきた。その声は優しいが、どこか心配そうだった。
「ミーナ、すまない。また君に迷惑をかけてしまって」
「迷惑だなんて、そんな……お父さんは一生懸命やってるじゃない」
リリアナは気になって、そっと窓辺に近づいた。隣のパン屋の窓から、親子らしき二人の姿が見える。
父親の方は四十代ほどの、がっしりとした体格の男性だった。しかし、その顔には深い疲労の色が浮かんでいる。娘の方は、リリアナとそう変わらない年頃の少女で、心配そうに父親を見つめていた。
彼らがハンスとミーナの親子に違いない。
***
「どうやら、パンの焼き加減で苦労しているようじゃな」
テオがリリアナの隣に立った。
「朝の忙しい時間に、一度に何十個ものパンを焼かねばならん。温度管理は熟練の技が必要じゃが、最近のハンスさんは疲労で集中力が続かないようじゃ」
「疲労……ですか?」
「妻を亡くして以来、一人でパン屋を切り盛りしておる。朝は夜明け前から仕込みを始め、夜遅くまで翌日の準備。身体が持たんのも無理はない」
リリアナの胸に、痛みが走った。故郷でも、過労で倒れた人を何度か見たことがある。皆、家族のため、生活のために無理を重ねた結果だった。
「何か、お手伝いできることはないでしょうか?」
「ふむ」
テオは髭を撫でた。
「君なら、何ができると思うかね?」
リリアナは考えた。錬金術の基礎理論を学び始めたばかりの自分に、一体何ができるだろうか。
その時、パン屋の方から、また焦げた匂いがただよってきた。続いて、ハンスの深いため息が聞こえる。
「温度……」
リリアナは呟いた。
「パンの焼き加減は、すべて温度管理にかかっている。もし、自動で最適な温度を保ってくれる道具があれば……」
彼女の頭の中で、錬金術の理論が組み合わさり始めた。熱を感知する鉱石、温度を調整する魔道具、マナの流れを制御する回路……
「作れる、かもしれません」
リリアナの瞳が輝いた。
「温度を自動で調整してくれる魔道具。理論的には、それほど複雑ではないはずです」
「ほう」
テオは興味深そうに眉を上げた。
「しかし、君はまだ理論を学んでいるだけじゃ。実際に作ったことはない」
「それは……」
リリアナの表情が曇った。確かに、その通りだ。頭の中では作り方が分かっても、実際に形にする技術はまだない。失敗するかもしれない。それどころか、そもそも相手が迷惑に思うかもしれない。
「やっぱり、私には無理でしょうか……」
「どうして無理だと思うのかね?」
テオの問いかけに、リリアナは言葉に詰まった。
「だって、私はまだ駆け出しで……経験もないし……」
「経験がなければ、永遠に経験は積めんのかね?」
師匠の言葉が胸に響く。
「君は今、何を恐れているのじゃ?」
「失敗が……怖いです」
リリアナは正直に答えた。
「もし、うまくいかなかったら。もし、迷惑をかけてしまったら」
「なるほど」
テオは頷いた。
「では、何もしなければ、ハンスさんの悩みは解決するのかね?」
「それは……解決しません」
「君が何もしなくても、失敗を恐れて立ち止まっていても、彼の苦労は続く。それでよいのかね?」
リリアナは隣のパン屋を見つめた。ハンスが疲れ果てた表情でパン窯と格闘している姿が見える。娘のミーナは、そんな父親を心配そうに見守っている。
錬金術で人を笑顔にしたい。それが、彼女の夢だった。
でも、失敗を恐れて何もしなければ、その夢は永遠に夢のままだ。
***
「第一の指針」
リリアナは心の中で呟いた。
自らの意志で選択する。失敗や困難を他人のせいにせず、自分で行動を選ぶ。
経験がないからできない。失敗するかもしれないからやらない。それは、結局のところ逃げているだけなのではないか。
「師匠」
リリアナはテオを見上げた。
「私、やってみたいです。失敗するかもしれませんが、何もしないよりはいいはずです」
「そうじゃな」
テオは微笑んだ。
「それが、君の選択じゃ」
リリアナは深呼吸をした。そして、隣のパン屋に向かって歩き出す。
一歩、一歩。足は震えているが、心は決まっていた。
パン屋の扉の前で、彼女は一度立ち止まった。中からは、ハンスの苛立った声が聞こえてくる。
「また温度が上がりすぎた……このままじゃ、今日の分も台無しに……」
リリアナは扉をノックした。
コン、コン。
「はい、いらっしゃいませ……って、君は隣の工房の子じゃないか」
扉を開けたのは、ミーナだった。亜麻色の髪をしたリリアナと同じくらいの少女で、人懐っこい笑顔を浮かべている。しかし、その目の奥には心配の色が見えた。
「あの……私、リリアナと申します。隣のテオ・グライフ工房で、錬金術を学んでいる者です」
「ああ、錬金術師さんなのね! 私はミーナ。よろしくお願いします」
ミーナは明るく挨拶してくれたが、リリアナは「錬金術師」と呼ばれて居心地悪く感じた。まだ駆け出し中の駆け出しなのに。
「あの……もしよろしければ、お父様にお話があるのですが……」
「お父さん? お父さん、隣の工房の方がお見えよ」
奥から、疲れた表情のハンスが現れた。エプロンには小麦粉がついており、額には汗が浮かんでいる。
「こんな忙しい時に、すみません」
ハンスは恐縮して頭を下げた。
「実は、パンの焼き加減がうまくいかなくて、お騒がせしてしまって……」
「いえ、そのことで、お話があるんです」
リリアナは震える声で言った。
「あの……もし、よろしければ……」
言いかけて、また声が小さくなってしまう。ハンスは「ん?」と耳を傾けた。
第一の指針。自らの意志で選択する。
リリアナは勇気を振り絞った。
「私に、手伝わせてもらえませんか?」
ハンスとミーナは、驚いたような顔をした。
「手伝うって……錬金術で、ですか?」
「はい」
リリアナは頷いた。
「パン窯の温度を自動で調整してくれる魔道具を作れば、お父様の負担を減らせるかもしれません」
ハンスの目が見開かれた。
「そんなもの、本当に作れるんですか?」
「正直に申し上げますと……まだ分かりません」
リリアナは正直に答えた。
「私はまだ駆け出しで、失敗するかもしれません。でも、何もしないよりは、挑戦してみたいんです」
ハンスは暫く黙っていた。そして、ミーナと顔を見合わせる。
「お父さん、お願いしてみない?」
ミーナが小さく囁いた。
「このままじゃ、お父さんの身体が心配よ」
ハンスは深いため息をついた。そして、リリアナを見つめる。
「分かりました。お願いします」
彼の表情に、かすかな希望の光が宿った。
「ただし、無理はしないでくださいね。失敗しても、責めるつもりはありませんから」
「ありがとうございます!」
リリアナの顔に、満面の笑みが浮かんだ。
初めての依頼。初めての挑戦。
錬金術で人を笑顔にするという夢への、最初の一歩が踏み出された。
***
工房に戻ったリリアナは、さっそく設計図を描き始めた。
温度感知用の魔石、熱調整のためのマナ回路、全体を制御する術式……頭の中にあった理論を、紙の上に形にしていく。
「どうじゃ、うまくいきそうかね?」
テオが覗き込んできた。
「はい、理論的には問題ないと思います」
リリアナは興奮気味に説明した。
「この魔石が温度を感知して、マナ回路を通じて火力を調整する仕組みです。パンに最適な温度を維持できるはずです」
「ほう、よく考えられているじゃないか」
テオは感心したように頷いた。
「しかし、問題がひとつある」
「問題……ですか?」
リリアナは不安になった。
「この魔石を固定するための金属部品じゃ。非常に精密な加工が必要になる」
テオは設計図の一部を指差した。
「残念ながら、ワシの工房にはそこまで精密な金属加工の道具はない。それに、ワシももう歳でな、細かい作業は得意ではないのじゃ」
リリアナの表情が曇った。せっかく設計図ができたのに、肝心の部品が作れない。
「どうすれば……」
「この街で一番腕の良い鍛冶師を知っておる」
テオは窓の外を指差した。
「職人地区の奥に、ヴォルフ・アイゼンという鍛冶師がいる。腕は確かじゃが……」
「じゃが?」
「少々気難しい男でな。特に、こういった繊細な魔道具作りは、あまり好まないかもしれん」
リリアナは設計図を見つめた。ハンスとミーナの期待に応えるためには、どうしてもこの部品が必要だ。
「行ってみます」
彼女は決意を込めて言った。
「断られるかもしれませんが、お願いしてみます」
テオは満足そうに微笑んだ。
「その調子じゃ、リリアナちゃん。自分で選択し、自分で行動する。それが、君の道じゃ」
夕日が工房を染める中、リリアナは明日への決意を新たにしていた。
初めての依頼を成功させるために、そして何より、錬金術で人を笑顔にするという夢のために。
彼女の挑戦は、まだ始まったばかりだった。
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