第2話:師匠の第一の指針

 リーフェンブルクに朝が訪れる。

 セレナ川のせせらぎが街を包み、パン屋の煙突からは薄く白い煙が立ち昇っている。職人地区に響く槌音は今日も変わらず、街の一日が静かに始まっていた。

 テオ・グライフの工房では、弟子入りして三日目のリリアナが、黙々と床を掃いていた。

 昨日も一昨日も、やることは同じ。朝になれば掃除、昼になれば試験管や蒸留器の手入れ、夕方になれば薬草の整理。師匠のテオは「まずは工房に慣れることじゃ」と言うばかりで、錬金術については何一つ教えてくれない。

「おはよう、リリアナちゃん」

 テオが工房の奥から現れた。いつものように穏やかな笑みを浮かべ、手にはお気に入りのパイプを持っている。

「おはようございます、師匠」

 リリアナは箒を止めて頭を下げた。しかし、その表情にはどこか不安の色が浮かんでいる。

「今日も掃除からじゃな」

「はい……」

 短い返事の後、リリアナは再び床を掃き始めた。けれど、その手つきにはどこか投げやりな様子が見て取れる。

 テオは何も言わず、自分の作業台に向かった。そして、ゆっくりと薬草を選別し始める。その手際は熟練そのもので、見ているだけで錬金術の奥深さが感じられる。

 だが、リリアナにその技術を教えてくれることはない。

 *** 

 午後になっても、状況は変わらなかった。

 リリアナは試験管を磨きながら、時折テオの作業を盗み見る。師匠は何やら複雑な図面を描いているようだが、彼女には何の説明もない。

「あの……師匠」

 ついに、リリアナは口を開いた。

「はい、何かね?」

「私、いつになったら錬金術を教えていただけるのでしょうか?」

 テオは手を止め、振り返った。その瞳には、深い洞察の光が宿っている。

「焦っているのかね、リリアナちゃん」

「焦っているわけでは……」

 言いかけて、リリアナは言葉に詰まった。確かに焦っている。このまま雑用ばかりでは、いつまで経っても錬金術師になれない。故郷を飛び出してきた意味がない。

「でも」

 リリアナは勇気を振り絞った。

「私、錬金術を学ぶためにここに来たんです。掃除や片付けなら、家でもできます」

 その言葉を聞いて、テオはパイプを口にくわえた。紫の煙がゆらりと立ち昇る。

「なるほど」

 彼は椅子に腰を下ろし、リリアナを見つめた。

「君は今、何が原因で錬金術を学べずにいると思っているかね?」

「え?」

 突然の質問に、リリアナは戸惑った。

「師匠が……教えてくださらないからです」

「そうじゃな。では、なぜワシが教えないのか、考えたことはあるかね?」

 リリアナは困惑した。確かに、考えたことはない。ただ、師匠が意地悪をしているとも思えないし、忙しくて時間がないようにも見えない。

「分からない……からでしょうか?」

「ふむ」

 テオは立ち上がり、工房の窓辺に歩いていった。そこからは、隣のパン屋の様子がよく見える。

「リリアナちゃん、失敗を誰かのせい、環境のせいにしていないかね?」

 その言葉は、リリアナの胸に鋭く突き刺さった。

「そんなこと……」

「君は今、錬金術を学べないのは『師匠が教えてくれないから』だと言った。つまり、ワシのせいだということじゃな」

 テオの声は穏やかだが、その指摘は的確だった。

「でも……」

「君がここにいるのも、掃除をしているのも、何もしないのも、すべて君自身の選択なのじゃよ」

 *** 

 リリアナは立ち尽くした。

 師匠の言葉が、心の奥底に響いている。確かに、誰も彼女にここにいることを強制してはいない。掃除だって、嫌なら断ることができたはずだ。

「第一の指針」

 テオは振り返った。

「自らの意志で選択する。これが、一流の職人である前に、一人の自立した人間であるための、最初の教えじゃ」

 工房に静寂が訪れた。外からは相変わらず街の音が聞こえてくるが、リリアナには今、師匠の言葉だけが耳に届いている。

「失敗や困難を、環境や他人のせいにするのは簡単じゃ。『師匠が教えてくれない』『材料がない』『時間がない』。言い訳はいくらでも見つけられる」

 テオは書棚から一冊の本を取り出した。古びた革表紙に、『錬金術基礎理論』と金文字で書かれている。

「しかし、それでは何も始まらん。君が本当に錬金術を学びたいなら、まず自分で行動を選択することじゃ」

 彼はその本をリリアナの前に置いた。

「ワシは君に掃除を命じたが、錬金術を学ぶなと言った覚えはない。この本は、誰でも読める場所に置いてあった。君が手に取らなかっただけじゃ」

 リリアナは本を見つめた。確かに、書棚の手の届く場所にあった。でも、勝手に読んでいいものか分からなくて、遠慮していたのだ。

「でも、許可をいただいてから……」

「許可?」

 テオは首を傾げた。

「君は故郷を出る時、親御さんに許可をもらったかね?」

「それは……」

 リリアナは言葉に詰まった。確かに、両親には反対されていた。でも、自分の意志で飛び出してきたのだ。

「君は自分の人生を、誰かの許可制にするつもりかね? 一つ一つの行動を、他人の承認を得てから取るのかね?」

 師匠の問いかけに、リリアナの中で何かが変わり始めた。

「そんなこと……したくありません」

「ならば」

 テオは微笑んだ。

「自分で選択しなさい。その本を読むのも、読まないのも。錬金術を学ぶのも、諦めるのも。すべて、君の選択じゃ」

 リリアナは震える手で本に触れた。表紙は古いが、中身はしっかりと保存されている。ページをめくると、錬金術の基本的な理論が丁寧に説明されていた。

「私……この本を、読みたいです」

 声は小さかったが、そこには確かな意志があった。

「読んでも、よろしいでしょうか?」

「それを決めるのは、君じゃ」

 テオは優しく言った。

「ワシではない」

 リリアナは深く息を吸った。そして、決意を込めて言った。

「私は、この本を読みます。自分の意志で」

 その瞬間、彼女の瞳に新たな光が宿った。もう、誰かの許可を待つのではない。自分で決めて、自分で行動するのだ。

 *** 

 夕暮れが工房を包む頃、リリアナは夢中になって本を読んでいた。

 錬金術の三原則、等価交換の法則、マナの性質について。初めて知る知識の数々に、彼女の心は躍った。分からない言葉があれば、別の本で調べる。それも、もう誰の許可も求めない。

「良い顔をしているじゃないか」

 テオが声をかけた。

「師匠……」

 リリアナは顔を上げた。その表情には、朝とは全く違う活力があった。

「ありがとうございます。やっと、分かりました」

「何がじゃ?」

「私、今まで誰かのせいにばかりしていました。家族が反対するから夢を諦めそうになったり、師匠が教えてくれないから学べないと思ったり」

 リリアナは本を胸に抱いた。

「でも、本当は全部、私が選択していたんですね。逃げることも、立ち向かうことも」

「そうじゃ」

 テオは満足そうに頷いた。

「それが分かれば、君はもう一歩前に進んでいる」

 工房の外から、香ばしいパンの匂いが漂ってきた。しかし、それと共に聞こえてきたのは、深いため息の音だった。

「あのパン屋の主人、最近ずいぶん疲れているようじゃな」

 テオが窓の外を見ながら呟いた。

「ハンスさんという、良い人なんじゃが……」

 リリアナも窓に近づいた。隣のパン屋の窓からは、確かに疲れた男性の姿が見える。額に汗を浮かべ、何度もパンの焼き具合を確認している様子だった。

「何か、お困りのことでもあるのでしょうか?」

「さあて、どうじゃろうな」

 テオは意味深な微笑みを浮かべた。

「気になるなら、明日にでも話を聞いてみてはどうかね。もちろん、それも君の選択じゃが」

 リリアナは錬金術の本を見つめた。まだ読み始めたばかりだが、もしかしたら自分の学んだ知識で、隣人の役に立てるかもしれない。

 それは、錬金術で人を笑顔にしたいという彼女の夢の、最初の一歩になるかもしれなかった。

 夜が更けゆく工房で、リリアナの新たな挑戦への想いが、静かに芽生え始めていた。

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