第22話 稼ぎと命の境界線
国道を走る車の音が、遠い世界の残響のように聞こえていた。
住宅地の外れ。造成途中の小さな山を囲うように、白い仮設壁が立てられている。数年前、突如として現れた穴を封じ込めるために設けられた囲いだった。
その内側に口を開けているのがゴブリンダンジョン。名前の通り、ゴブリンが徘徊する不人気の異空間である。
人気の「肉ダンジョン」とは対照的に、ここには人影が少ない。
門前に立つ自衛官と警察官を除けば、柵の外には注意書きと立入禁止の立て札が並ぶだけ。
空気には取り残された施設のような寂しさが漂っていた。
「これで手続きは完了です。……前回も言いましたけど、無理だけはしないでください。ここ、人気は無いんですけど、怪我人はそれなりに出てますから」
事務所の簡素な机越しにそう言ったのは、警察官・熊澤恵美 二十六歳。
研修時からの顔馴染みで、この区域の管理を交代で担当している。
制服越しにも分かる均整の取れた体の線。派手ではないが整った顔立ちで、視線を向けられると軽く息を整えたくなる。
「了解です。無理はしないつもりです」
雨木は頷いた。二度目の手続き。声にも自然と落ち着きがあった。
「そうしてください。正直、もう来ないと思ってました」
熊澤は穏やかに笑った。
その奥にほんのかすかな安堵が混じることを、雨木は察した。
彼女にとって、再訪は予想外だったのだろう。
「はは……三度目の約束はちょっと難しいですけどね。他のダンジョンも見てみたいですし」
軽く肩を竦めた言葉に、熊澤の笑みが一瞬だけ翳った。
その刹那の陰りが妙に雨木の印象に残る。
だが、それは雨木の足を止める理由にはならない。
雨木にとって、冒険者としての価値は稼ぎに尽きる。
稼げるなら潜るし、稼げないなら離れる。
命を懸ける以上、懐を潤すかどうかがすべてだ。
このダンジョンを選んだ理由も単純だ。
自宅から近く、予約が取りやすい。
研修で使ったことのある、勝手の分かる場所。特別な思い入れはない。
実際、彼はすでに世田谷の肉ダンジョンにある臨時パーティへの参加申請を済ませている。
五人枠の最後の一席。わずかでも遅れていれば消えていた。
運が重なっただけ。けれど、そういう巡り合わせもまた稼ぎのうちだ。
熊澤と短い世間話を交わし、雨木はロッカーの鍵を受け取る。
番号を確かめ、無言のままロッカールームへ向かった。
◆
ゲートを抜けた瞬間、世界が切り替わる。
冷えた空気が肌を撫で、湿った苔の匂いが鼻腔を刺した。
「……何度来ても、不思議な感覚だ。どうにも、慣れねぇ」
雨木はひとつ息を吐き、周囲を見回した。
右、左、もう一度右。問題はない。
前回潜ってからまだ数日。入口周辺はおそらく安全だ。
「……よし、今のうちだ」
今回の雨木が前回と違うのは準備期間があったことだ。
背にはリュックサック。脇にスポーツバッグ。右手には牛丼屋の包みを握っている。中には牛丼の大盛が三つ入っている。
これは賭けだった。
もし入口周辺にゴブリンがいれば、これらを投げ捨てて戦うことになる。
リュックやスポーツバッグは兎も角、牛丼の命はなかっただろう。だが命には代えられない。
「賭けには勝った。小さな賭けだけどな。勝ちは勝ち。さて書を解放せよ《グラン・レコルド》。
続いて現象を転写せよ《レコルド・カード》現象を転写せよ《レコルド・カード》現象を転写せよ《レコルド・カード》っと」
雨木は呼び出した
彼の
今日までは何も刺さっておらず、まだ六枠空いている。
「人のスロットまで干渉しないと思うけどね。初めて会う面子の前でやるのも、感じ悪いかもしんないし」
ダンジョンドロップはアイテム・レコルドに入れなければ地上へ持ち出せない。
参加者の中には「スロットに余裕を持たせておけよ」などと文句を言う輩もいるだろう。
だが今回の肉ダンジョン野良パーティは五人枠だ。
低階層のドロップ率が高くないことも考えれば、全員のスロットが埋まるほどのドロップが出る期待は薄い。
そう考え、一人で入る今こそ荷物を先に持ち込んでおくことにした。
「ま、埋まったら牛丼を食えば良いしな。魔物をおびき寄せる餌にもできる。最悪腐ったらダンジョンにぶちまければ勝手に消えるみたいだし。
何にしてもカード化した場合の時間経過の確認は必須だ。流石に時間停止までは望めないだろうが、確認は絶対だ。入れたままだとどうなるかだけは確かめておかないと」
カード化できるのはダンジョンに持ち込んだ物だけ。
だがカード化の解除は地上でも
レコルドを出しているところを、誰かに見られさえしなければ問題はない。
雨木はその点は心得ているし、迂闊に行うつもりはない。
雨木にとって、これは必要な確認だった。
リュックサックには日用品が詰められており、急な外泊にも対応できる。
スポーツバッグには作業服の予備や替えのバールなど、ダンジョン用の装備が入っている。
「立入禁止区域の中に入っちゃえば、レコルドを出しても問題ないしな。ふふ、これでダンジョン周辺までは手ぶらで来られる。さすがは俺、抜かりない。
……という自画自賛をしたところで、行こうか。さて、お仕事の時間だ。気を引き締めろよ俺」
内心では雨木も、この程度の
二度目といえど完全に恐怖が消えたわけではない。
独りという環境で、それを紛らわすための、ただの軽口だ。
消えた荷物はカードとなり、
残された右手にはバールを。左手にはトンファーを握る。
素手では絶対に戦わないと、雨木は決めている。
ゴブリンの爪や牙は鋭く、引っかかれば感染症の危険がある。感染症で死ぬなど、考えるだけで寒気が走った。
だが、雨木には前回の経験がある。
奴らの動きは単純だと知っている。
狭い場所に潜むか、曲がり角で待ち伏せを仕掛けてくるのが常套手段だ。
知らなければ危険だ。だが、知っていれば対処は容易い。
ゴブリンの体躯は一メートルほど。
百八十センチを超える雨木の正面からの力には敵わない。
これも前回の戦闘で確信した。
だが油断はしない。囲まれれば不利なのは
湿った空気の中を、雨木はゆっくりと進んでいく。
足元の砂がわずかに鳴るたび、耳が自然と研ぎ澄まされる。
壁際には崩れた石片、割れた木箱の残骸。
どれも前回と変わらない――が、ひとつ違和感があった。
通路の奥、灯りの届きにくい角に、子供が潜れそうな物陰がある。
落ちた瓦礫と崩れた木箱が積まれた山。
それにしては形が整いすぎていた。
雨木は立ち止まり、息を潜める。
数秒、音を聞く。気配はない。
それでも確信は持てなかった。
「……怪しいな」
右手に持ったバールの位置を少し下げ、角度を調整する。
「ゴブリンダンジョン《ここ》じゃ、怪しいは即死刑だ!」
距離を取ったまま、腕の力を込めてバールを突き出した。
――グチャ。
肉を裂く手応え。
「ギィィィッ!」
甲高い悲鳴とともに、影から小さな影が飛び出した。
牙を剥き、爪を振り上げた瞬間、左腕が動く。
トンファーが横に回り、叩きつけた。
――ガギッ。
骨が軋む音が雨木の左腕に返る。
ゴブリンは弾かれたように転がり、光に包まれて消えた。
残されたのは、鈍く光る小さな魔石ひとつ。
雨木はそれを拾い上げ、掌で転がす。
重みのない石片。命の痕跡は、それだけだった。
「ふー……さすがに最初の戦闘は、まだ緊張するな。だけど問題ない。
殴っても、叩いても、……殺しても、俺は何も感じない。俺はやれる。
あれは魔物。殺せば金になる。なら殺す、それだけだ。
感じるな、考えろ。最短距離で、最適な攻撃を、最速で加える。一瞬一瞬を全力で、それを繰り返すだけだ」
小さく息を吐き、魔石を腰ポーチに収める。
まだ一階層。それでも、油断すれば喰われる場所。
ここはダンジョン。――死と利益の境界線。
「ふふ、要するに稼ぐか喰われるかだろ。分かりやすくて良い。結構、……俺好みだ」
※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを補助利用しています。
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