第17話 噂の向こうに

― 熊澤恵美 視点 ―


 私の勤める警察署は、東京都から多摩川を渡った先、最初の街並みにある。

この街にはダンジョンの入口があり、署内にはその対応部署が設けられている。

そのせいか、朝の庁舎は他の署よりも少しばかり騒がしい。

詰所には研修担当の警察官たちが顔をそろえ、今日の受講者リストを手に打ち合わせをしていた。


 私は書類を整理しながら、周囲の声を半ば聞き流していた。

そんなときだった。視界の端で、いつも明るい後輩が半泣き顔でこちらへ歩み寄ってきた。


「熊澤さん……お願いです、今日の担当、代わってください!」


 声をひそめてはいるが、切羽詰まった様子は隠せない。

思わず手を止め、きりりと目を細めた。


「……どうしたの?」


「今日の受講者……私、知ってるんです」


 眉がわずかに動く。聞き返そうとした瞬間、すぐそばの同僚たちが「何の話だ?」と興味を示し、自然と視線が集まった。


「私、小学校まで空手やってたんです。フルコンタクト系の」


近くで書類をめくっていた年配の警察官が、経歴欄をのぞき込み、口を挟む。


「そういや今日の研修生……雨木楓真。経歴に空手ってあるな」


「空手ぐらい珍しくもねぇだろ。柔道とか剣道の経験者なら警察にもごろごろいる」


「警察学校じゃどっちか必修だしな」


「自衛隊だって柔道有段者ばかりだしな」


 私は黙って聞いていたが、若い彼女は首を振った。


「……違うんです。この人は、そういうんじゃないんです」


 そう言って、震える指で履歴書を指し示す。


「同じ道場じゃないですけど、地元の大会で何度も顔を合わせてたんです。

あのとき私は十二歳で、小学生最後の大きな大会でした。

あの人は“黒騎士”って呼ばれていて……私たちよりずっと上の、大人の部に出ている人で……。

強いのに礼儀正しくて、でもどこか影がある。近寄りがたいのに、なんか目を離せない人で……。

当時は憧れてる子も多くて……私もそのひとりで、握手してもらったことがありました」


黒騎士――。耳慣れない呼び名だが、妙にしっくりくる響きだ。

武道をやってきた人間なら、そういうあだ名を背負う者の雰囲気をなんとなく察せられる。


「黒騎士って……漫画か?」


「いや、本当にそう呼ばれてたんですよ。なんか、近づきにくいけどカッコいい、みたいな」


「へぇ、意外とモテたんだな」


 感心半分、揶揄半分の声が周囲から漏れる。だが彼女はそこで言葉を区切らなかった。


「でも――最後の大会で全部変わったんです」


呼吸をひとつ置き、彼女は続ける。


「私の流派の大会に、雨木さんが他流派として出てきていたんです。フルコンタクト空手って、顔面へのパンチは禁止なんですよ。危険すぎるから。

でも、その試合で相手が三回も顔を殴ってきたんです」


「あー……他流派戦だと審判がそっちの人間だから、止めてもらえないやつか」


「はい。完全なアウェーで、反則でも止めてくれない。しかも三回目で――」


彼女はごくりと唾を飲み込み、言った。


「ブチ切れて、試合相手じゃなく……試合を止めない審判をやっつけちゃったんです」


 その場の空気が一瞬、ぴたりと止まる。

冗談や脚色を感じさせない声音に、誰も笑わなかった。


「……それは、やばいわね」


 私が低くそう漏らすと、彼女は必死に続けた。


「だから今日、自分が研修を担当すると思うと、怖くて……」


 私は再び履歴書を見下ろす。

そこにある顔写真の男は、涼しげな目元でこちらを見返していた。

紙の上の視線なのに、不思議と芯のある光が宿っているように見える。


(……これが“黒騎士”か。十年前、十二歳だった彼女が見上げた男も、もう三十二歳か)


 静かに書類を閉じた。


「……分かった。代わってあげる」


 短くそう告げると、彼女の表情が一気に緩み、肩から力が抜けた。

安堵の息を吐くその横顔を見やりながら、私はゆっくりと息をつく。


(よりによって、二か月ぶりの新人研修でこれか……)




※本作は作者による構成・執筆を基に、一部AIを補助利用しています。

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