第3話 その善意は、俺には届かない
「よろしくね、カマ太郎!」
満面の笑みで俺を指先に乗せるフィーア。その笑顔は太陽のように明るくて、前世の俺なら一発で恋に落ちていただろう。
だがしかし、今の俺はカマキリだ。種族の壁は、エベレストよりも高く、マリアナ海溝よりも深い。
「さ、帰ろっか、カマ太郎! 私のおうちに!」
フィーアは俺を左手の人差し指に乗せたまま、軽やかな足取りで森の中を歩き始めた。時々、俺に向かって嬉しそうに話しかけてくる。
「いやー、それにしてもすごかったなぁ、さっきの! あのグレートボアを一撃だもんね! あなた、本当は伝説級の使い魔なんじゃない?」
違う。事故だ。まぐれ当たりだ。
俺は心の中で全力で否定するが、もちろん彼女には届かない。
「私、冒険者になってまだ半年で、あんなに大きな魔物と戦ったの初めてだったの。正直、もうダメかと思った。でも、カマ太郎が助けてくれた! あなたは私の命の恩人よ!」
重い! その勘違い、あまりにも重すぎる!
俺は、自分がただのカマキリであり、勇敢な戦士などではないことを、どうにかして伝えなければならないと強く思った。このままでは、いつか本当に伝説級の魔物の前に突き出されかねない。
やがて森を抜けると、石畳の道と、素朴だが頑丈そうな木造の家々が見えてきた。冒険者の拠点となる街のようだ。フィーアの家は、その街の入り口近くにある、こぢんまりとした一軒家だった。
「ただいまー! ……って、誰もいないんだった。さ、入って入って!」
家の中は、物が少ないながらも綺麗に片付いており、彼女の真面目な性格が伺える。テーブルの上には、書きかけのレポートのような羊皮紙と、インク瓶が置かれていた。きっと、魔物の生態か何かを勉強しているのだろう。
「カマ太郎のおうち、どこがいいかなぁ。そうだ!」
フィーアはそう言うと、部屋の隅にあった木箱を持ってきて、中にふわふわの綿を敷き詰め始めた。
「よし、今日からここがあなたのベッドよ! 気に入った?」
彼女は俺をそっと木箱の中に降ろした。ふかふかの綿は、確かに心地がいい。彼女の純粋な善意に、ささくれ立っていた俺の心も、ほんの少しだけ温かくなる。
……だが、違うんだ。俺が求めているのは、こういう優しさじゃない。俺は虫なんだよ。こういう立派な寝床より、窓際のカーテンの裏とかのほうが落ち着くんだ……!
「よし、なんとかして誤解を解かねば……!」
俺は決意を固め、フィーアに向かって最初のコミュニケーションを試みた。
まずは、人間社会における万国共通の否定のジェスチャー、「首を横に振る」だ。
俺は小さな頭を、ブンブンと左右に振った。俺は戦士じゃない、違うんだ、と念じながら。
すると、それを見たフィーアが、きゅん、とした表情で両手を頬に当てた。
「まあ! どうしたのカマ太郎! そんなに嬉しいの? 喜びのダンス、とっても情熱的で可愛いわ!」
……ダメだ。伝わらない。カマキリの身体構造上、首を振る動きが変なダンスに見えるらしい。
「ならば、次の手だ!」
俺は木箱から出ると、床の上でカマを使い、文字を書こうと試みた。まずは簡単なひらがなで『ち・が・う』と。
ギッ、ギッ、とカマの先端で床を引っ掻く。これでフィーアも、俺に知性があること、そして何かを伝えようとしていることに気づくはずだ。
「……え? すごい! カマ太郎、地面に何か描いてる! まさか、これって……魔法陣!? こんな複雑な図形を詠唱もなしに描くなんて! あなた、本当は何者なの!?」
フィーアの瞳が、尊敬の色をさらに濃くする。
違う! ただのひらがなだ! あんたたちの世界では馴染みがないかもしれんが、魔法陣なんかじゃない!
俺はもう、やけくそだった。
最終手段として、カマキリが敵に対して行う最大の威嚇行動をとることにした。
後ろ足でスッと立ち上がり、両腕のカマを大きく広げ、体を左右に揺らす。どうだ! これなら、俺が友好的ではないこと、警戒していることが伝わるだろう!
その姿を見たフィーアは、顔をぽっと赤らめ、もじもじと俯いた。
「ま、また……そんな情熱的なアピール……。わ、わかったから! 私も、カマ太郎のことが大好きよ!」
完敗だった。
俺の試みはすべて、フィーアという善意と勘違いのフィルターを通して、真逆の意味に変換されてしまった。俺はがっくりと肩(らしき部分)を落とし、すべての抵抗を諦めた。
その夜。フィーアが自分の夕食であるパンとスープを食べていると、俺にもパンの欠片を差し出してきた。
「カマ太郎も食べる?」
俺は心の中で首を横に振る。カマキリは肉食だ。生きた虫しか食べない。
そう思った瞬間だった。
部屋の隅を、ブーン、と羽音を立ててハエのような虫が飛んでいるのが、俺の複眼に捉えられた。
次の瞬間、俺の体は意思とは無関係に、電光石火の速さで動いていた。
右腕のカマが空を切り、寸分の狂いもなくハエを捕獲する。そして、そのまま口元へ運び、ムシャムシャと咀嚼を始めた。うん、新鮮で美味い。
「……!」
フィーアが、その一連の動きを固唾をのんで見守っていたが、やがてパアッと顔を輝かせた。
「そうか! カマ太郎は自分でご飯を調達できるのね! なんて自立心の高い使い魔なの! しかも、今のって街で大発生して困ってる害虫の『ブヨブヨフライ』じゃない! ありがとう、カマ太郎! 街の衛生も守ってくれるなんて!」
ああ、もうどうにでもなれ……。
俺は達観した表情でハエの足をもぎりながら、この世界では、諦めが肝心なのだと静かに悟った。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、フィーアはテーブルの上に広げていた一枚の羊皮紙を手に取った。それは、冒険者ギルドの依頼票のようだった。
「ねえ、カマ太郎! 明日、一緒にこの依頼に挑戦してみない?」
彼女が指さした依頼票には、『安らぎ草の採取』と書かれていた。しかし、その下には小さな文字で注意書きが添えられている。
『採取場所の湿地帯には、粘液を飛ばす魔物『スライムベッグ』が多数生息。要注意』
「カマ太郎がいれば、きっと大丈夫よね!」
フィーアは屈託なく笑う。
俺の、平穏とはほど遠い、勘違いだらけの本格的な異世界冒険ライフが、こうして幕を開けようとしていた。
もちろん、俺の意思とはまったく関係なく。
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