第18話 ──布石の切り札 

 その朝、怜司は目覚めたときから、胸の奥に重たいものを感じていた。昨夜までの調査と準備──カレン・エレクショネスの霊が残した言葉と、録音した音声。そのすべてを背負って、今日は次の段階に踏み込む日だった。




 探偵事務所の小さなキッチンで濃いめに淹れたコーヒーを一口飲む。喉に広がる苦味と香りが、まだぼんやりしていた意識を急速に研ぎ澄ませていく。窓の外には曇天の朝が広がっており、梅雨入り間近の空気が重くまとわりついていた。




 怜司はゆっくりと身支度を整えた。シャツの襟を正し、ジャケットのポケットにメモ帳とボイスレコーダーを滑り込ませる。靴紐を締め直す手元に、どこか気の緩みはなかった。




 目的地は、川端丸太町にある《笠原弁護相談事務所》。


 数日前、「男女間のトラブルの相談をしたい」との名目でアポを取った。表向きは個人間の揉めごとや離婚相談を多く扱う事務所らしいが、怜司の目的は別にある。




 ──まどかと赤松の裁判。




 記録には何の名前も残っていないが、あの裁判の背後には不可解な闇があった。まどかの弁護を担当したのが、他ならぬ笠原弁護士だ。公にされなかった“何か”を知る唯一の存在。




 だが、正面から「まどかさんの件について話してほしい」と切り出せば、まず間違いなく守秘義務を盾にされる。それならば、こちらから踏み込むのではなく、自ら語らせるしかない──守秘義務をかざしてくるなら、自分から言わせるのみだ。




 川端通りの歩道をゆっくりと進みながら、怜司はふと空を仰いだ。曇り空の切れ目から差し込む朝陽が、ビルの隙間に斜めに光を落とす。




(カレン……君の無念は、俺が受け取った。今はただ、その手がかりを探しに行く)




 小さな雑居ビルが見えてくる。三階に掲げられた控えめなプレート、《笠原弁護相談事務所》の文字が午前の光に淡く照らされていた。




 外壁は少しくたびれていたが、整えられたマットと手入れの行き届いた植木鉢が並び、無骨な印象の中にも生活の気配がある。




(なるほど……入管に関する案件を扱っているのも納得だ。近くには出入国管理局京都出張所がある。あそこからの相談を拾っているわけか)




 怜司はスマートフォンで時間を確認する。予約時間の十五分前。


 ぴったりに現れるよりも、少し余裕を持って姿を見せるのがベストだ。




 ビルの階段をゆっくりと上がっていく。鉄製の手すりにかすかな錆の感触が伝わる。三階へ──




 そこにあったのは、質素な木製の扉。


 目立った装飾も看板もなく、ただプレートの文字だけが来訪者を迎えていた。




 怜司は扉の前で立ち止まり、静かに深呼吸する。


 この扉の向こうに、真実の断片がある。




 重たくなった心の奥に、かすかな熱が灯る。




(さあ、笠原。俺は──お前の“影”を見に来た)




 京都・川端丸太町、鴨川沿いの並木道に面した古びた雑居ビル。その三階、他の階とは異なる静けさが漂う一角に、《笠原弁護相談事務所》の表札がひっそりと掛かっていた。




 真神怜司は一度深く息を吸い込み、銀色の取っ手にそっと手をかける。手のひらに伝わる金属の冷たさが、不穏な予感の輪郭をなぞるようだった。




 扉を押し開けると、薄く芳香剤の香る空間が広がった。室内は簡素で無駄がなく、清潔に保たれていた。受付カウンターの奥には、髪を後ろで結った年配の女性庶務が淡々と業務をこなしている。




「ご予約の……真神さまですね。笠原、準備しております。ご案内します」




 やや乾いた声色ながらも丁寧な応対。怜司は無言でうなずき、庶務の背中を追って廊下を進んだ。




 案内された応接室は、予想以上に明るかった。ベージュの壁紙が陽光を反射し、木目の美しいテーブルとイスが整然と配置されている。壁には法務関係の表彰状がいくつも飾られ、それがこの事務所の実績をさりげなく物語っていた。




 エアコンの低い作動音だけが支配する静寂の中で、怜司は息を潜める。




「失礼します。お待たせしました」




 静かに開いた扉の向こうから現れた男は、想像していたよりも柔和な印象だった。50代半ば、小柄で痩せ型、灰色のスーツは皺ひとつなく、黒縁眼鏡の奥にある目は穏やかに笑っている。




「笠原です。今日は“男女トラブル”とのご相談でしたね。具体的には、どのようなご用件で?」




 その声には、事務的な堅さはなく、むしろ親身な態度すら感じさせる響きがあった。


 さすがに相談料一時間五千円取るだけはある、と怜司は内心で皮肉交じりに感心する。話し方ひとつ取っても、信頼を得るために洗練された技術が染みついているのが伝わってきた。




 だがその笑みの裏で、怜司の視界には“異物”が映っていた。




 ――カレン・エレクショネス。




 笠原の背後、窓のそばの空間に、不自然な暗がりが揺れていた。そこに、褪せた色のワンピースをまとい、浅黒い肌と艶を失った黒髪をなびかせる女性の霊が佇んでいる。




 カレンの目は、まるで遠くの闇を見つめるように虚ろで、それでも怜司の存在を確かに捉えていた。唇が微かに動く。




「たすけてくれるって……言ったのに」




 声は風のように、冷たく耳をかすめた。




 怜司の背筋に微かな戦慄が走る。だが、それを表に出すことはない。ただ、彼の指先が膝上でかすかに震えた。




 カレンの視線が突き刺さる中、怜司は静かに口を開いた。




「……“カレン・エレクショネスさん”のことで、少しお話を伺いたいと思いまして」




 その名を告げた瞬間、応接室の空気がわずかに変質した。




 笠原の顔には微笑が張り付いたままだった。だがその眼鏡の奥で、瞳が確かに揺れた。




 気づかぬふりをするかのように、彼はゆっくりと口を開く。




「……存じ上げませんが、その方がどうかされましたか?」




 怜司は即座に返答しなかった。沈黙を意図的に挟み、霊的波調に意識を集中する。




 “からだあげた”


 “うそだった”


 “ゆるさない”




 言葉にならない悲鳴が、空間の裂け目から滲み出るように広がっていた。




 この部屋は戦場だ。沈黙すら武器となり、気配の揺らぎが心理の罠を張り巡らせる。




 怜司は、慎重に呼吸を整えながら、次の一手を見定めていた。




 応接室の沈黙が、少しずつ冷気を孕んでいく。


 怜司は笠原の微笑の奥を読みながら、視線をすっと後方へ移す。




 そこにいた。


 カレン・エレクショネス。




 怜司にしか見えないその霊体は、うっすらとした霞のような輪郭で、まるでこの世に未練だけを残したまま凍りついた時間の中にいるようだった。


 その目が、ゆっくりと彼を見つめる。




 ――たすけて、って……いったのに。




 胸の奥で、誰かの声が鳴る。言葉というより、震える波紋が怜司の心に染み込んでくる。




 カレンの声は、片言でありながら、まっすぐに刺さる真実の刃だった。


 怜司はわずかに目を細め、表情ひとつ変えずに、笠原に向き直る。




 だが、笠原は先に口を開いた。




「……失礼ですが、真神さん。あなたはいったい何者ですか? NPO関係の方でしたら、以前に同様の問い合わせを受けています」




 怜司は短く息を吐き、静かに答えた。




「カレン・エレクショネスさんの知人です。彼女が日本で過ごした間、何があったのかを知りたくて来ました」




 その一言で、笠原の眉がかすかに動いた。




「……カレン・エレクショネスさんの件、記憶にないとおっしゃいますが。少し、私の話を聞いてもらえますか?」




 笠原は相変わらず穏やかな微笑をたたえていたが、その笑みが、やや引きつって見えた。




「彼女は、日本での在留資格の延長を申請しようとしていました。滞在期限が迫る中、生活の困窮と、家族への送金義務に苦しんでいた」




 カレンの霊が、静かにうなずいた。




「……そんなとき、貴方は“手を貸そう”と申し出た。『相談料はいらない』『全部無料でいい』と。善意に見せかけたその提案に、彼女はすがるように頷いた」




 笠原の手が、わずかにテーブルの縁を握った。




「だが、実際は違った。貴方は――身体を求めた」




 言葉に冷たい重みを込めて放つと、カレンの霊は目を伏せ、深くうなずいた。




 怜司は間を置かずに、畳み掛けるように続けた。




「カレンは、家族を支えるために“お水の仕事”を始めました。それも、他に方法がなかったからだ。


 でも……それを知った貴方は、密かに、警察に通報した。彼女が風俗営業に関与していると」




 カレンの目から、見えない涙がこぼれた気がした。




 怜司は静かに、けれど確かな意志を込めて告げた。




「貴方が、彼女の最後の“味方”を装っておきながら、その背中にナイフを突き立てた。――違いますか、笠原先生」




 部屋の空気が、静かに軋んだ。




 怜司の言葉が応接室に静かに落ちると、その空間に張り詰めたような沈黙が立ちこめた。


 まるで時が止まったかのような数秒間。笠原は怜司の目を真っ直ぐに見返していたが、その視線は徐々に揺らぎを帯び、口元の笑みがじわじわと崩れていった。




「……あなたが何者かは知りませんがね、そんな訳の分からない妄想を……名誉毀損で訴えますよ!」




 張り上げた声には、怒りよりも焦燥と不安が滲んでいた。


 喉が乾いているのか、言葉の合間に微かに咳払いの音が混じる。


 笠原は背筋を無理に伸ばして威圧的に見せようとするが、怜司の冷ややかな眼差しに押し返され、内心では焦りに満ちていた。




「証拠でもあるんですか? そんな嘘の話に根拠があるとでも?」




 その言葉に、怜司は静かに首を傾けただけで答えなかった。


 彼の手がポケットに入る。ゆっくりと取り出されたスマートフォンがテーブルに置かれ、指先が画面を数回タップする。




 そして、流れ始めたのは震える女性の声。




「Kasama ko siya sa kwarto. Sabi niya tutulungan ako. Tapos... hinalikan niya ako. Sabi niya kailangan daw ng kapalit. Natakot ako. Pero wala akong choice."




《あの人と部屋にいました。助けてくれるって言ってた。でも……キスしてきたんです。見返りが必要だって。怖かった。でも、他に選べなかった》




「Sabi ko, may pamilya ako sa Pilipinas. Kailangan ko ng pera. Kaya nagtrabaho ako sa club. Pagkatapos, bigla na lang akong tinawagan ng immigration."




《フィリピンに家族がいます。お金が必要で、クラブで働いた。そしたら、突然入管から呼び出された》




 告白は低く、力ない声だったが、そこに込められた恐怖と絶望の色は明確だった。


 録音されたその声が室内に響く間、笠原は身動き一つ取れずにいた。




 怜司の目が、まっすぐに彼を射抜く。




「……あなたは、善意を装って彼女に近づいた。そして弱みにつけ込み、見返りを要求した。彼女は家族のために身体を売るようになり……その末に、あなたは彼女を裏切った。密かに、警察に通報したんでしょう」




 笠原の顔が引きつる。眉間には深い皺が寄り、口元が何か言いかけるように動くが、声にならない。




「カレンは、信じてしまった。日本の法律家なら助けてくれるって。でも、あなたは違った」




 怜司の声は淡々としていた。


 しかしその言葉は鋭く、冷たく、ナイフのように突き刺さる。




 スマートフォンから流れる音声が止んだ。


 静寂が戻るが、それはただの無音ではなく、何か重く沈殿する“問い詰め”の気配だった。




「こういった供述と、タイミングの合致、そしてあなたが“相談記録を残していなかった”という一点……。


それらすべてが積み重なれば、どう判断されると思いますか?」




 怜司の声は、まるで法廷での尋問のようだった。




 その背後に立つカレンの霊が、怜司にしか見えぬ姿で、ただ静かにうなずいていた。


 怨念のようなものは感じられない。ただ、そこには「見届けてほしい」という哀しみに近い意志だけがあった。




 部屋の空気はすでに、誰の言い訳も受け付けないほどに冷え切っていた。




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