第17話 ――霊視とカレンの怨念
探偵という仕事には、地道な時間がつきものである。
怜司はこの日、川端丸太町の交差点近くに位置する雑居ビルの前に立っていた。
ビルの三階に入居しているのは、「笠原弁護相談事務所」。
数日前に裁判記録を読み返した際、大泉まどかの弁護人として記載されていた「笠原」が、まさにこの事務所の主であることを突き止めたのだ。
(いきなり訪ねて『まどかさんの件、聞かせてもらえませんか』なんて言ったところで、門前払いされるのがオチだろう)
それが怜司の率直な予測だった。
だからこそ彼は、まずは張り込みから始めることにした。
雑居ビルの外観は古びていて、タイルの剥がれた壁や錆びた鉄の手すりが目立っていた。
建物の入口横には「笠原弁護相談事務所」と手書きの表札が掲げられ、小さな観葉植物が添えられている。
ガラス越しに覗くと、資料棚、コピー機、そして年季の入ったソファと木製の応接机が確認できる。全体的に慎ましくも、どこか丁寧に手入れされている雰囲気が漂っていた。
ネットで調べたところ、この事務所は法テラスに登録されており、主に扱うのは離婚問題、男女間のトラブル、そして入管関係だった。
(なるほど、入管か。確かにこの近くには出入国在留管理庁の京都出張所がある。あそこでの相談を拾うのが狙いか……がつがつと金を稼ぐために過払い金請求や債務整理だけを専門にしているような弁護士とは路線が違う。真面目にやってるタイプってことか)
怜司はそう考えながら、通りを挟んだ向かいにある古びた喫茶店に入り、窓際の席を確保した。
席からは事務所の入り口がちょうど見える。
店内は落ち着いたジャズが流れ、コーヒーの香りが心地よく漂っている。
怜司はバッグからノートを取り出し、ボールペンを滑らせるようにして走り書きを始めた。
──まずは、笠原弁護士がどんな人物なのかを知ること。
何時に出勤し、どんな服装で、どのようなペースで働いているのか。
その日常の流れを知ることで、接触のタイミングや霊視で揺さぶる隙も見えてくる。
探偵としての基礎中の基礎。
相手を“読む”には、まず相手のリズムに馴染むことが必要なのだ。
外はまだ朝の光が街を斜めに照らしており、人通りもまばらだった。
怜司はコーヒーに口をつけながら、静かな戦いの始まりを、じっと待っていた。
探偵としての経験則だが、怜司はこう思っている。
──世の中、脛に傷のない人間なんていない。
一見すると順風満帆に見える人生でも、その実、内側は真っ暗な闇を抱えている人間はごまんといる。笑顔も肩書きも、清潔なスーツ姿も、すべては表面の仮面だ。
その仮面の裏にある“何か”を暴くのが、自分の仕事だ。
だからこそ、怜司は自らの霊視の力を使う覚悟を決めていた。
張り込みを始めて一週間。ターゲットである笠原弁護士の生活リズムはほぼ掌握していた。
彼は川端丸太町の交差点近く、雑居ビル三階にある「笠原弁護相談事務所」に、毎朝九時少し前には出勤し、昼は簡素な弁当を持参。仕事が終われば午後七時には事務所を出て、まっすぐ駅に向かうという生活を繰り返していた。
(赤松みたいな厄介な動きもなく、むしろありがたいくらいだな……)
怜司はそう内心で思いながら、今日も喫茶店の窓際からビルの出入りを見張っていた。
そして──その“気配”は突然、やってきた。
通りを歩く笠原の姿を目で追っていたとき、その背後に、黒く重たい“何か”がぼんやりと現れた。
光の具合ではない。怜司にしか見えない、異質な霊の存在だった。
女性の霊だった。肌は青白く、髪は濡れたようにまとわりつき、目の焦点がどこにも定まっていない。
そして、怜司の心に直接、言葉が届いた。
「……カレン……エレクショネス……」
舌足らずで、たどたどしい日本語だったが、怜司にははっきり伝わった。
「……ワルイ……ニホンジン……キライ……」
その瞬間、怜司は背筋が冷たくなるのを感じた。
この霊──カレンと名乗った存在は、恐らく生前に日本で何らかの被害を受けて命を落としたのだ。
そしてその怨念は、今も笠原の背後にまとわりついて離れない。
(やっぱり、こいつも何かある……。まどかの件と関係してるかはまだわからないが、間違いなく“こっち側”の人間だ)
怜司は静かにコーヒーをすすりながら、背筋に残る冷気を振り払った。
すべての人間が善人でいられるわけじゃない。
そして、死んだ後も、怒りと苦しみを背負ったままこの世に留まる者もいる。
怜司の調査は、いよいよ笠原の闇に近づきつつあった。
カレン・エレクショネス──。
あの日、笠原弁護士の背後に現れた外国人女性の霊が、なぜか最初に自分の名前を名乗ったことが、怜司の心に強く残っていた。
(あれは、単なる怨霊の吐き出しじゃない……何かを、俺に託したかったはずだ)
探偵事務所の四階。カーテン越しに朝の弱い光が差し込む仮眠室で、怜司は一人、湯気を立てるコーヒーカップを手にしながら、ぼんやりとディスプレイの光を見つめていた。
まだ頭がぼんやりしている。眠りは浅く、夢の中でもカレンの声が耳に残っていた。
「カレン・エレクショネス……ワルイニホン……」
あの低くかすれた、しかし怒りと哀しみの滲んだ声。
自分の名を告げる。それは、強く訴えたい“何か”があるからだ。
怜司は仮眠室の一角に置かれたノートパソコンを立ち上げた。検索エンジンの窓に、ためらいなくその名前を打ち込む。「カレン・エレクショネス」。
検索ボタンを押した瞬間、いくつかの記事が画面に並んだ。
その中のひとつ、外国人支援NPO法人が運営するサイトの記事に、怜司の目は釘付けになった。
『入管収容施設で、在留資格切れのフィリピン人女性が不審死──NPOが可視化を訴え』
見出しの下には、カレン・エレクショネスの名前が記されていた。
記事によると、カレンは在留資格の期限が切れたことで施設に収容され、前日から体調不良を訴えていたものの、翌日の職員巡回中に死亡しているのが発見されたという。死因は公表されておらず、対応にも疑問が残る内容だった。
カレンに何が起きたのか。
施設内で本当に医療対応が行われていたのか。
(……やはり、ただの事故じゃない。誰かの手が加わったと考えるほうが自然だ)
怜司は、唇をわずかに噛み締めた。
そして──次の確信が浮かび上がる。
(笠原だ。あの弁護士……あいつは、何らかの形でこの件に関与している)
直接か、あるいは間接的にかはわからない。だが、あの夜、怜司にだけ見えたカレンの霊が笠原の背後にまとわりついていたこと。それこそが何よりの証拠だった。
「これは……俺にしか聞こえない声だ」
声に出すと、仮眠室の空気が少しだけ冷えた気がした。
死者の声を聞くというのは、得てして“耳”より“心”が求められる。
目を閉じて、怜司は静かに覚悟を固めた。
この声を無視することはできない。霊視探偵・真神怜司として、この事件もまた、引き受けなければならない宿命なのだと、胸の奥で静かに思った。
あれから数日、怜司は何度か笠原に分からないように接近していた。
通勤時、退社時、時には真昼の京都、川端丸太町の交差点。蒸し暑さに包まれた街路のなか、怜司は人波に紛れて目立たぬようコーヒースタンドのベンチに座り、傍らにはスマートフォンを操作しているふりをしながら、静かに笠原の出入りをうかがっていた。
霊能探偵としての経験が、彼に独自の“感覚”を授けている。
霊がこの世に残す波調──それは、ごく微細な周波のようなもので、怜司の内部をわずかに震わせる。それを感知するには、距離と角度、そして“気配の濃度”が重要だった。
カレン・エレクショネス──あの謎めいた霊の真意を知るためには、彼女が最後に執着していた存在、すなわち笠原に近づくしかない。死者の思念と共鳴するには“絶対距離”がある。文字通り、近ければ近いほど明確に波が伝わってくるのだ。
そして、三度目の接近。夏の宵、日が傾き街に仄暗い陰が伸び始めた頃、怜司は河原町通りに面したドラッグストアの前で立ち止まった。目の前を通り過ぎた笠原の背に、見えない冷気のような気配がまとわりついているのを感じた。
その瞬間、ふいに怜司の耳に“声”が届いた。
「たすける……うそ……」
「からだ……あげた……うそ……」
「にゅうかん……に……うった……」
「ゆるさない……」
それは幼い少女のような、かすれた片言の日本語だった。
ただ、その言葉の一つひとつが、鋭く胸に突き刺さるような訴えを持っていた。
(……たぶん、カレンは、“助けてやる”という言葉を信じた。その見返りに身体を求められ、弄ばれ、そして……“不法滞在している者がいる”と入管に密告されたんだ)
裏切りの絶望と怒り。彼女がなぜこの世に留まり、怨念として笠原に纏わりついているのか──怜司には、もはや明白だった。
そして同時に、それを暴くのは“視える者”である自分の役割でもあると、そう思った。
怜司は探偵事務所に戻ると、薄暗いデスクの引き出しから小型レコーダーを取り出した。
そこには、数時間にも及ぶYouTubeから抽出した音声が保存されていた。
フィリピンのニュース番組、街頭の喧騒、歌番組の一節……英語とタガログ語がごちゃ混ぜになった、断片的なフィリピンの“生の声”。
怜司は、そこから意味を持ちそうな短いフレーズだけを抜き出し、ひとつの“仕掛け”を練り上げていく。
言葉と言葉の間に、あえて無音の空白を挟む。
音源を流すタイミングと場所は慎重に選ばなければならない。
これは証拠でも脅しでもない。ただ“気づかせる”ための、仕掛けなのだ。
「……これが、俺の切り札になる」
仮眠室の薄明かりの下、怜司の目が静かに光を帯びた。
霊能探偵としての執念が、またひとつ新たな闇へと、歩みを進めようとしていた。
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