第12話 ──無の気配

 雨脚はさらに強まっていた。


 探偵事務所のドアを開けた瞬間、真神怜司は来訪者の姿を目にし、すぐに鞄の中からタオルを取り出した。


 いつものようにラフに持ち歩いている備えの一枚だったが、この時ばかりは何よりも有用だった。




「とりあえずこれ。……風邪、ひきますよ」




 彼の手から差し出されたタオルを、雫は小さく会釈して静かに受け取った。


 その手の動きは慎ましく、しかしどこか切実なものを滲ませていた。


 タオルで濡れた髪先を拭い、肩口にかけながら、彼女は怯えたような目で怜司の様子を窺っていた。




 シャツの袖口はしっとりと水を含み、椅子に座ると雫の足元には小さな水たまりができた。


 怜司は黙って古新聞を数枚取り出して、その下に差し込んだ。


 ぺたり、という湿った紙の音が空気を切った。




 窓の外は、まるで薄墨を流したような灰色の世界。


 遠くの車の音も、隣室のテレビの声も、この空間には届かない。


 事務所の中だけが、時の流れから切り離されたように、静かだった。




「突然、すみません……」




 雫の声は、雨音にかき消されそうなほど細く、しかし確かだった。


 その目には揺らぎがなかった。ただひたすらに、何かを求める意思だけが灯っていた。




「近くまで来たので、つい……兄のこと、少しでも何か進展があったのかと思って」




 怜司は一瞬、彼女の視線を受け止めた。


 だがすぐにその目を逸らし、椅子の背もたれから身を起こす。


 鞄の口を開き、中からクリアファイルを取り出した。


 雨で濡れないようビニール袋に包んでいたそれを、慎重に開いて机の上に置く。




「……あなたから教えてもらった名前、覚えてますよね。赤松達彦、大泉まどか、川原義明、間宮拓真」




 怜司はゆっくりとファイルをめくりながら、彼女の表情を窺う。


 紙の一枚目には、《損害賠償請求事件》と太字で記されていた。


 原告:大泉まどか。被告:赤松達彦。


 そしてその下には、簡潔ながら重い言葉が並んでいた。




「これは三年前の裁判記録。民事です。不法行為に基づくもの。君の兄とは直接関係ないかもしれないが……中身を読む限り、無関係だとは思えない」




 雫の視線が、ゆっくりと紙面に落ちていく。


 濡れた髪の先から一滴、ぽたりと紙の角を濡らした。


 彼女は唇を震わせながら何かを言いかけ──しかし、言葉にならないまま沈黙した。




 その沈黙が、室内に不思議な緊張感を生む。


 怜司は背中で換気扇の音を感じながら、低く呟いた。




「今、君にすべてを見せるべきか……判断は難しい。でも、知っておくべきことは、ある」




 彼の声は淡々としていたが、確かな熱を帯びていた。


 この部屋には今、ふたりしかいない。


 そしてふたりの間に置かれた数枚の記録が、過去の影を確かに映していた。




 ファイルを静かに閉じると、怜司はわずかに息を吐いた。


 そのため息には、単なる情報収集を終えた後の疲れではなく、何か胸の奥に沈殿した苦味が滲んでいた。




「……酷い話でしょ」




 静寂の中に落とされた言葉は、雨音にすら負けずに雫の耳に届いた。


 怜司の声には、皮肉とも怒りともつかぬ響きがあり、どこか諦念にも似た色が滲んでいた。




「名門大学って肩書きが泣くよ。南洛大学のサークルとしては、あまりにも恥ずべき内容だ」




 机の上には、先ほど雫に見せたばかりの裁判記録が広げられたままになっている。


 そこに記されていたのは、恋愛沙汰などという甘い言葉では済まされない、深く暗い傷痕の数々だった。


 暴力、妊娠、流産、そして不同意による猥褻行為。




 怜司は椅子の背もたれにゆっくりと身を預け、視線を天井へとさまよわせながら呟いた。




「裁判記録を読む限り、あの“オカルト愛好会”ってのは、名前だけの仮面だ。実態はヤリサーだったんだろうな。学問や趣味を語る口実にして、内情は性欲の吹き溜まり。倫理も規律もどこかに投げ捨てて、快楽だけを追いかけた結果が、これだ」




 雫は無言のまま、膝の上で濡れた手を固く組み合わせていた。


 その細い指が、じっと動かずに静かに力を込めているのが、怜司には痛々しく映った。


 彼女の表情は静かで崩れなかったが、その瞳の奥には、何かを必死に抑え込むような冷たい決意の色が浮かんでいた。




 怜司はしばし黙った後、言葉を選ぶように問いかけた。




「君が今入ってるサークル……あれ、“オカルト愛好会”の後継なんだよな。今の雰囲気は、どうなんだ?」




 雫はふっと顔を上げた。


 そして少しだけ考え込むような間の後、かすかに首を横に振った。




「今は……そんな空気は感じません。普通のサークルです。文化祭の準備をしたり、都市伝説を調べたり。少なくとも、外から見れば」




 その言葉に怜司は目を細めた。


 言葉をそのまま信じるには、まだ判断が早い。だが、彼女の口調に嘘はなかった。




 ふと、怜司の視線が雫の横顔をとらえた。


 雨に濡れて乾ききらぬ髪が頬に張り付き、そこから一滴、無言のしずくが滑り落ちていた。




 それが涙でないことは、怜司にも分かっていた。


 けれど、なぜか胸の奥に冷たいものが広がっていく。




 この静けさの裏に、まだ語られていない“何か”がある。


 そんな確信だけが、彼の胸に残っていた。




 記録謄写の束をもう一度、怜司は手に取り、机の上でゆっくりと整えた。その手つきは無意識のうちに慎重さを増しており、視線は一枚一枚の紙の奥――黒々と塗り潰された部分に釘付けになっていた。




「見てもらった通りだ、香月さん」




 静かな声が、事務所の中に響く雨音の隙間を縫って雫に届いた。




「……あのサークルには、間違いなく“黒幕”がいる。俺はそうにらんでる」




 雫はソファの背もたれに背を預けたまま、怜司をじっと見つめていた。その眼差しはいつもより真剣で、同時にどこか憂いを帯びている。




「あなたが教えてくれた旧幹部四人の名前──それがなければ、ここまでは辿り着けなかった。けれど、それだけじゃ足りなかった」




 怜司は裁判記録の中でも異様な存在感を放っていた、一箇所の黒塗りを指さした。




「民事裁判で、ここまで黒塗りされた記録を見るのは俺も初めてだ。普通なら、当事者や証人の名前もそのまま残ってる。だけど、ここの“代表者”だけは消されてる」




 雫の目がかすかに揺れた。




「つまり……?」




「つまり、これは偶然じゃない。意図的に、この名前だけを隠してる。しかも、原告である大泉まどかや、被告の赤松達彦の口からも、その名前は一度も出てこない」




 怜司は指先で机を軽く叩いた。




「この黒塗りの向こうにいる“代表者”──そいつこそが、君の兄さんの失踪に関係している可能性が高い。……いや、きっとそうだ」




 雫はゆっくりと目を伏せた。そして、そのまま深く息を吸い込むと、震える声で訊ねた。




「今後は、どうするつもりですか?」




「まずは、この裁判を起こした当事者──大泉まどかと赤松達彦に接触を試みる。彼らの証言が、黒幕に繋がる鍵になるはずだ」




 雨音が、窓ガラスを打つ強さを増していく。


 雫はしばらく黙っていたが、やがて小さく、しかしはっきりと呟いた。




「……流石です、怜司さん。あなたに依頼して、本当によかった」




 その言葉に、怜司は返す言葉を一瞬迷った。


 感謝を受け取ることに、慣れていない。




「……まだ、何も解決しちゃいないさ」




 それでも口元に微かな笑みを浮かべて、怜司は再び記録の束を整えた。黒く塗られたその先に、まだ誰も触れていない真実がある。その重みを、静かに背負いながら。




 事務所の蛍光灯が、静かな雨音を背景に微かに唸っていた。窓の外では濡れたアスファルトが鈍い光を反射して、蒸気のように煙っている。




 雫は膝の上で両手を重ね、裁判記録のファイルをそっと閉じた。そして、それを見つめていた怜司の顔を見上げ、小さく微笑んだ。




「……少しずつですけど、兄の謎が解明に向かって進展していて、少し気持ちが和みました」




 その声は、夜の帳のように静かで穏やかだった。だが、その裏には、長く張り詰めていた糸がわずかに緩んだような、安堵の気配があった。




 怜司は目元をわずかに緩めながら、机の上に置かれたタオルを丁寧に畳む。濡れた髪がまだ雫の頬に張りついていた。




「ありがとう。けど、まだ断片がつながっただけです。ここからが本番ですよ」




 その言葉には、焦りを押し殺した冷静さと、自身への戒めがにじんでいた。




 雫は少し恥ずかしそうに視線を外し、窓の外に漂う雨の筋を追うように目を細める。




「そ、それと……この前の、霊の話……“鬼の淵”でのあの話、怖い思いをされたのに不謹慎かもしれませんけど……とても興味深かったです」




 その声には、戸惑いと好奇心、そしてどこか幼いような感情が同居していた。




「……私のことも、別の目で見られましたか?」




 その問いかけに、怜司は一瞬、言葉に詰まり、唇を噛む。そしてわずかに苦笑した。




「……そうですね。癖でつい、依頼者の方を“霊視”してしまうことがありまして」




 彼の声には、探偵としての立場と、霊能者としての矛盾を受け入れざるを得ない複雑な心情がにじんでいた。




 雫はそんな怜司の言葉を聞いて、くすっと小さく笑った。そして、再び顔を上げて問いかける。




「でしたら……私に何か、感じるでしょうか?」




 怜司は視線を伏せたまま黙し、少しの間だけ沈黙が流れた。




 雫は慌てるように手を振り、笑みを浮かべたまま言葉を重ねる。




「いえ、女性ってこういうの、興味あるんです。……それ以外の他意はありませんよ。ですから、怖がりません。教えてください」




 その言葉には、無垢な探求心と、怜司への信頼が織り交ざっていた。




 怜司はゆっくりと呼吸を整え、目を細めながら彼女を見つめた。そこには依頼人としてではない、ひとりの女性としての雫が確かにいた。




 そして彼は、少しだけ視線を揺らしながら――ゆっくりと口を開いた。




 しばしの沈黙の後、怜司は机の上に置かれたカップの湯気を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。




「……正直に言うと、雫さんからは何も感じません」




 その瞬間、雫の瞳がわずかに揺れた。肩をすくめるようにして、彼女は曖昧な笑みを浮かべる。




「え?」




 怜司は首をかしげながらも真剣な表情を崩さず、目の前の彼女をじっと見据えた。




「ふつうはね、何かしら背負っているものがあるんです。過去の影とか、未練、怨念……そういうものが、目には見えなくても漂ってくる。けれど雫さんは……まるで、そこに“何もない”ように感じるんです。空っぽという意味じゃなくて……存在そのものが、綺麗に“無”として在る感じで」




 説明しながら、自分でもその感覚をどう言葉にしていいのか分からず、怜司は少し困ったように頬をかいた。




「これは自分にとっては、とても稀有なケースでして……」




 そして、わずかに視線をそらしながら、冗談めかして口元をゆるめる。




「もしかしたら……雫さんに、別の感情があるのかもしれないですよ」




 冗談とも本気とも取れないその言葉に、雫はくすりと笑い、両手を膝の上でそっと重ねながら首をかしげた。




「ふふ……そうかもしれませんね」




 ふたりの間に、ほんの一瞬だけ、言葉では表せない穏やかな空気が流れた。




 窓の外では、なおも降り続ける雨が静かに事務所の屋根を叩いていた。午後の薄暗い光の中で、古びた照明の温かい灯りが二人の影を柔らかく照らしていた。




 それから数分、たわいもない話題で時間が過ぎた。怜司の昔の依頼の失敗談や、雫が見た最近の奇妙な夢の話。少しずつ、緊張がほどけ、会話はゆるやかに終息していった。




 やがて、雫がそっと腰を上げる。




「探偵さんの方向性、女の勘ですけど……きっと間違ってないと思います」




 そう言って、濡れた傘を手に取ると、再び怜司に向かって微笑んだ。




「今後とも、調査の方……よろしくお願いします」




 その姿には、わずかに心が軽くなったような印象があった。




「ええ、任せてください」




 怜司もまた立ち上がり、軽く頭を下げた。




 事務所の扉が開き、外の湿気を含んだ冷たい空気が一瞬だけ室内に入り込む。雫の背中が雨に溶けるように去っていき、扉が静かに閉まった。




 怜司はその場に立ち尽くし、再び静寂が戻った事務所の空気の中で、彼女が残した言葉の余韻を胸の奥に感じていた。




 "無"とは何か。なぜ自分は、彼女にそれしか感じ取れないのか。




 不思議な感覚が、まるで水面に広がる波紋のように、じわじわと心の底に染みこんでいくのだった。

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