第11話 ──驚愕の裁判記録
京都地方裁判所──中京区菊屋町に鎮座するその庁舎は、直線的な構造と石造りの外観が厳粛さを湛え、まるで都市の中に置かれたひとつの静かな砦のようだった。
左右対称に並ぶ窓と柱。その秩序ある造形に、残暑の陽光が斜めに差し込んでいた。
真神怜司は、しばしその建物を見上げたまま動かなかった。
何度も訪れたはずなのに、ここを通るたび、背筋にひんやりとした風が吹き抜ける。
“記録”が眠る場所──その言葉が自然と脳裏に浮かぶ。
吸い込まれるようにして自動ドアをくぐる。
金属探知ゲートの緑のランプが点灯する中、怜司は手慣れた動作でポケットの中の鍵束をトレーに置いた。
この瞬間すら、どこか儀式めいて感じる。
ロビーの奥、受付カウンターには淡い青の制服に身を包んだ職員が控えていた。
怜司は落ち着いた声で告げる。
「民事裁判記録の閲覧申請をお願いします」
応じた職員が手際よく差し出したのは、白い申請用紙とボールペン。
怜司は記入台に移動し、名前、住所、連絡先を書き込んでいく。
だが、“閲覧理由”の欄に来たとき、彼の手が一瞬だけ止まった。
本当の理由──『八年前のいざこざの真相と、“鬼の淵”の事件との関係を探るため』──そんなことを書けるわけがない。
代わりに、怜司は迷いのない筆致でこう記した。
「関係者の所在確認に関わる調査の一環として」
控えめで曖昧だが、嘘ではない。探偵の書く“真実に近い嘘”だった。
ワンコイン──五百円の収入印紙を、傍らの販売窓口で購入。
淡い朱色の印紙を申請書の所定の欄に丁寧に貼る。
接着面に指を添えるその所作に、無意識の緊張がにじんでいた。
再びカウンターへ戻ると、職員は無言で書類を確認し、数分後に番号札を手渡してきた。
「3番の閲覧端末をご利用ください」
無機質な声に促され、怜司は静かに案内された閲覧ブースへと向かう。
ブース内は図書館の閲覧席に似たつくりで、静寂が支配していた。
照明はやや暗めだが、液晶モニターの青白い光だけが明瞭に目を射る。
席に腰を下ろすと、すでにログインされた端末には事件名が表示されていた。
“赤松達彦・大泉まどか/損害賠償請求事件”。
その文字列を見た瞬間、怜司の胸の奥で何かが音を立てて沈んだ。
(本当に……ここにあるのか?)
手を伸ばしたマウスが、かすかに震える。
それは恐れというより、覚悟の揺らぎだった。
この中に、失踪事件の手がかりの片鱗がつかめるかもしれない。
今はまだ他人事のような顔で佇んでいるデータの文字列が、やがて生々しい傷痕となって、彼の心に食い込んでくる可能性がある。
コピーの許可も申請してある。
紙に落とし、自室のデスクで何度でも読み返すこともできる。
だが、まずは目を逸らさずに、この場で向き合う必要がある。
怜司は、短く息を吸い、画面をクリックした。
画面に映し出された裁判記録の冒頭を読み進めるうちに、真神怜司の眉間に深い皺が寄っていった。
当初は、よくある恋愛絡みのもつれが訴訟に発展したのだろう──そう思っていた。
だが、実際に文字として記されていた内容は、予想の遥か上を行っていた。
《事件番号:平成27年ワ第×××号 損害賠償請求事件》
《原告:大泉まどか 被告:赤松達彦 訴訟代理人:間宮拓真(弁護士)》
《要旨:原告は、被告との交際中において暴行を受け流産を余儀なくされた上、精神的苦痛および身体的損傷を被ったとして、損害賠償請求を行う》
大泉まどかと赤松達彦は、共に名門大学のオカルト・ホラー愛好会に所属していた。
記録には、彼らがサークル活動を通して親しくなり、やがて交際に発展した経緯が淡々と記されていた。
だが、それはごく短い“穏やかな時間”に過ぎなかった。
赤松の浮気が発覚したのは交際から数ヶ月後。
その頃からふたりの間には口論が絶えず、赤松の暴言や暴力が日常化していったという。
そして、まどかが妊娠。
だが赤松はそれを望まず、暴力によって流産を引き起こした──と、記録には明確に綴られていた。
怜司はその一文を何度も読み返した。
静まり返った閲覧ブースの中、血の気が引いていくのを自覚しながら、マウスを握る手にじんわりと汗が滲む。
さらにページを繰る。
そこには、まどかが流産後、同サークルの男性メンバー数名から不同意のまま猥褻な行為を受けた事実も記されていた。
恐怖、屈辱、孤立。
まどかは当時、周囲に相談することもできず、ただ黙って耐えるしかなかった。
そして、恐るべき一文が続く。
《当該サークルは、表向きは学術的なオカルト研究団体を標榜していたが、実態は一部男性メンバーの性的関心を中心とした不健全な集団であった可能性が高い》
怜司は無意識に背筋を伸ばし、深く息を吐いた。
読み進めるほどに、これは単なる過去の恋愛やトラブルではない。
もっと大きく、もっと深い腐敗の構造が見え隠れしている。
最終ページに記された事実に、怜司は思わず息を呑んだ。
まどかが提訴に踏み切ったのは、大学卒業から三年後。
あれほどの苦しみを背負ったまま、なおも沈黙を強いられていた年月。
彼女の中に残ったのは、怒り、無念、そして「どうしても許せない」という強い思いだった。
訴訟の被告には赤松のほか、当時のサークル代表も名を連ねていた。
だが、代表の名前はすべて“黒塗り”にされていた。
電子化された記録でさえ、その名は伏せられたままだった。
さらに怜司を驚かせたのは、裁判記録の弁護士欄に記されていた一つの名前だった。
――間宮拓真。
まどかが告発した“腐敗の中心”にいた人物の一人が、赤松を弁護していたのだ。
サークル時代、渉外担当として活動していた彼が、今は法律家として加害側の防衛に回っている現実。
この記録の中には、語られていない真実がまだある。
怜司は画面を見つめたまま、深い思索の淵に沈んでいった。
真神怜司は、裁判記録のスクリーンを静かに閉じた。
液晶にぼんやりと映り込んだ自分の顔が、どこか他人のように見えた。
まるで、深い沼の底を覗き込んだあとの虚無のような表情──その中に、確信に近い予感と、鈍く沈んだ焦燥が滲んでいた。
閲覧ブースは静まり返り、時間だけがじりじりと進んでいく。
その沈黙の中で、怜司は再び記録の内容を頭の中で組み立て直していた。
赤松達彦、川原義明、間宮拓真、そして大泉まどか。
雫がもたらしてくれた、かつてのオカルト愛好会幹部たちの名前。
当初は散らばった断片に過ぎなかったその名前たちが、今ではひとつの輪郭を持って線となり、怜司の脳裏で不気味な円環を描いていた。
そして、その中心にぽっかりと空いた空白──
それが、“代表者”だった。
裁判記録でその存在に触れられているにもかかわらず、名前も経歴も、すべてが黒塗りで伏せられていた。
当事者が明記されるはずの民事裁判で、ここまで徹底して情報を隠す理由とは何か。
それを考えるほどに、得体の知れない“異質さ”が浮かび上がってくる。
(民事訴訟でここまで伏せる必要があるのか? ……いや、あるとすれば、伏せなければ都合の悪い者が存在するということだ)
怜司は、スクリーンの黒帯の箇所を思い返しながら、ゆっくりと息を吐いた。
まどかが赤松だけでなく、この“誰か”も訴えていたことは明白だ。
だが、その名前は徹底的に覆い隠されていた。まるで、法の目をすり抜けてでも“痕跡”を残さぬよう仕組まれていたかのように。
慧の失踪にも、この人物が関与している。
怜司の中で、その確信はじわじわと形を持ち始めていた。
旧ブログの件も、頭の隅に浮かぶ。
怜司自身が直接確認できたわけではない。
だが、雫が潜入調査の中で得た証言──
「昔の記録は全部消えてる」と口を揃えた現サークルの後輩たちの話。
雫の兄・慧が失踪した直後に、過去の活動記録をすべて抹消するなどという行為が、果たして偶然で片付けられるだろうか?
サークルの活動記録、ブログ、写真、レポート。
すべてが跡形もなく消え去ったという事実。
それを命じ、実行できる立場にあった人物。
それは、代表──あの“黒塗り”の人物しかいない。
怜司はゆっくりと拳を握り締めた。
冷えた皮膚の下、脈が静かに脈打っていた。
(──あいつを見つける。どんな手を使ってでも)
もはやこの事件の真相は、そこにしかない。
黒塗りされたその影を暴かねば、慧の行方は掴めない。
そしてそれは、依頼人・雫の最後の願いに応えるためでもあった。
裁判所の閲覧室を出るとき、怜司は深く呼吸を整えた。
古びた廊下を歩くその背中には、決意が静かに滲んでいた。
京都地方裁判所の石畳を踏みしめながら、真神怜司はゆっくりと正面玄関を後にした。
庁舎はどこから見ても威厳に満ち、左右対称の重厚な建築が黙して法の重みを伝えてくる。
数時間前とは打って変わって空は鉛色に濁り、雲が幾層にも重なっていた。湿った風が頬を撫で、どこか生ぬるい。
胸の奥には、まだ記録の残滓が張り付いていた。まどかの陳述、黒塗りの代表、そして名前を知る者たち。
あの裁判記録に書かれていた内容は、怜司の想像を遥かに超えていた。
──浮かび上がった名前、そして塗り潰された名。
赤松とまどか。彼らには必ず会って話を聞く必要がある。
できることなら二人とも京都にいるうちに済ませておきたいが、どちらかが拒む可能性もある。
状況次第では東京まで足を伸ばすことになるかもしれない──
川原義明。旧サークルの会計担当でありながら、自己破産に至った男。
あの金額は一介の学生に手に負えるものではなかった。事業か、あるいは投機か。
彼の証言も、何かの欠片になり得る。
階段を降り、地下鉄の丸太町駅に向かう途中、怜司はふと足を止めた。
ビルの谷間から望む南の空、大阪方面に異様なものが目に映る。
雨柱──
鈍色の空から一筋、黒灰色の帯が垂れていた。まるで天が裂け、地上に向けて降ろされた帳のようだった。
あの暗い帯は確実にこちらに向かっていた。
怜司は思わず目を細め、その風景に静かに呟く。
「……あれが、こっちに来るな」
通り雨。
まるでこれからの捜査に覆いかぶさる暗雲のように思えた。
決意したばかりの道に、試すような水の気配が近づいている。
怜司は小さく息を吐き、歩を速めた。
地下鉄を乗り継ぎ、烏丸御池で地上に出ると、湿った空気が肌に纏わりついてくる。
高層ビルの谷間にある自分の事務所のビルが見えてきたころ、ぽつり、ぽつりと雨粒がアスファルトに落ち始めた。
だが、もうひとつ──
ビルのエントランス前で、ひときわ目を引く人影があった。
女だった。肩までの黒髪が雨に濡れ、白いシャツがしっとりと張りついていた。
その姿には、どこか現実味が薄く、けれど確かにそこに在る気配があった。
怜司の足が自然と止まり、目が釘付けになる。
「……雫さん……?」
彼女は何も言わなかった。ただ、うっすらと微笑むような表情で、怜司の方をじっと見つめていた。
その瞬間、空が裂けたような轟音が響き、雨が勢いよく降り出す。
カーテンのように落ちる水に、街の輪郭がにじんでゆく。
雫の顔は、どこか遠く、静かで、まるで時の外側に立っているかのようだった。
怜司は言葉を飲み込み、ただその場に立ち尽くしていた。
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